疲れているのに気づかれたくない理由
疲れている。だけど、それを誰にも気づかれたくない。そんな気持ちが日常に染みついている。僕のように一人で司法書士事務所を切り盛りしていると、弱音を吐く暇もなければ、吐いたところで誰も拾ってくれない現実がある。事務員はひとりだけ。彼女の前で「もう無理」なんて言ったら、事務所全体がぐらついてしまう気がしてならない。だからいつも、元気なふり。余裕のあるふり。仮面は重くても、外す場所がない。
「大丈夫そう」と言われるたびに少しずつ削られる
「先生って、いつも落ち着いてますよね」なんて言われると、内心では苦笑いしてしまう。本当はギリギリの綱渡りをしてるのに、周囲はそんなこと知る由もない。むしろ、それを望んでいないのかもしれない。誰も僕の心配なんかしたくないから、「大丈夫そう」と勝手に判断して、安心して去っていく。言葉は優しい。でも、その優しさが一番きつかったりする。
本音を言える相手がいない職場環境
毎朝「おはようございます」と挨拶を交わすが、その背後にある気持ちは誰にも見えない。事務員に気を使わせまいと、なるべく明るく接するが、実際には寝不足や重たい案件で頭がパンパンなことも多い。本音を漏らせる相手がいないまま、月日だけが流れていく。誰かに「疲れた」と言いたくても、その「誰か」がいない。
期待に応え続けることの苦しさ
「司法書士ってしっかりしてそう」とか「頼れる存在ですね」とか、そんな期待の言葉を何度もかけられてきた。ありがたい。けれど、その期待を裏切るのが怖くて、ますます弱音を吐けなくなる。気づけば、自分の首を自分で締めている。期待に応えるために働いているはずが、いつのまにか、期待に縛られてしまっている。
“平気なふり”をしてしまう司法書士の日常
司法書士の仕事は、見た目ほど華やかじゃない。書類に埋もれ、法務局に走り、電話に追われる。外から見れば、穏やかにデスクワークをしているように見えるかもしれないが、内心はいつも「抜け漏れがないか」「次の予定に間に合うか」と焦燥感に襲われている。でもそれを顔には出さない。職業柄か、もう職業病か、表情ひとつ乱さない自分がそこにいる。
事務員の前では弱音を見せられない
うちの事務員は20代後半の女性。しっかり者で、ありがたい存在だ。でも、彼女の前で「昨日も寝てないんだよ」なんて言う勇気はない。年齢的にも立場的にも、そんなこと言ったら逆に気を使わせてしまう。だから黙って、今日も机に向かう。コーヒー片手に、眠気をごまかしながら。
背中を見せる立場の孤独
「所長」と呼ばれるたびに、自分の背中が見られている気がしてくる。背中を見せる立場の人間が、倒れそうになっていたら、きっと周囲も不安になるだろう。だからこそ、崩れられない。でも、それがどれほど孤独なことか。僕の心の中では、小さな叫び声が今日もこだましている。
独立してよかったこと、でも疲れること
独立した当初は、自由と夢に胸を膨らませていた。人間関係のストレスもなく、自分の裁量で動けるなんて最高だと。しかし現実は、すべての責任が自分にのしかかってくる世界だった。自由の代償として、休みも境目もなくなっていった。疲れても、止まれば生活が傾く。だから走り続ける。それが独立という生き方。
自由は増えた、でも責任も全部自分
会社員時代は、正直ラクだった部分もある。上司の指示に従っていれば、それなりに評価され、給料も入ってきた。今は違う。仕事を取るも断るも自分次第。失敗も、遅れも、全部自分の責任。自由の裏には、自己責任の重圧がある。それが日々の疲労の根源なのかもしれない。
仕事の波に一喜一憂する自営業のリアル
忙しい月もあれば、ヒマすぎて不安になる月もある。案件が続けば体力が削られ、途切れれば収入が心配になる。常に“安定しない”という状態が続くことで、心も身体も休まる暇がない。SNSでは華やかに見える自営業の世界も、現実には予測不能な波にただ流されるだけの毎日だ。
愚痴れる相手がいないという現実
夜遅く事務所を閉めたあと、誰にも連絡せずまっすぐ帰る。愚痴をこぼせる友人も、心配してくれる恋人もいない。気づけば、一言も声を出さずに一日が終わる日もある。「孤独死」という言葉がふと頭をよぎる瞬間さえある。そんな日々を「大丈夫」と片付けてしまっている自分が、たまらなく哀しくなる。
友達にも相談できず、恋人もいない
学生時代の友人とは疎遠になり、今は誰と飲みに行くわけでもない。恋人がいれば、愚痴のひとつも聞いてもらえるのだろうか。いや、もうそういう関係の作り方さえ忘れてしまった気がする。仕事ばかりしてきた結果、人生の半分を「ひとりでなんとかする方法」に費やしてしまった。
「誰かに頼る」ということが下手になっていた
いつからか、頼ることが怖くなっていた。断られるのが怖い、負担になるのが怖い。だから「ひとりでやる」ことを選び続けた。でもその結果、気づかれたくないはずの疲れが、誰にも見えないまま蓄積して、どうにもならなくなっている。頼る勇気のない人間は、疲れに気づかれたくないどころか、気づいてほしい相手すらいない。
頑張っているように見せることが習慣になる恐ろしさ
「疲れてる?」と聞かれたときに、「大丈夫です」と即答するのが癖になっている。実際には大丈夫じゃない。だけど、そう言ってしまう。そうしないと、自分の中で何かが崩れてしまう気がして。頑張っている“ふり”が当たり前になってしまった今、本当の自分の状態を見失いそうになる。
“やれてるふり”が板についた頃には限界が近い
誰にも気づかれないように、笑顔を作って、相槌を打って、仕事をこなす。でもその裏では、心も身体もすり減っている。いつのまにか“やれてるふり”が本物になってしまって、誰も手を差し伸べてくれない。限界は近いのに、限界だと気づかれないのが一番怖い。仮面が本物になってしまう前に、どこかで立ち止まらなければと思う。
それでも頑張ってしまう人へ
僕のように、疲れているのに誰にも気づかれたくない人はきっと多いと思う。弱さを見せることが恥ずかしくて、黙って耐えてしまう。でも、そんな人ほど本当は誰かに「わかるよ」と言ってもらいたいのかもしれない。このコラムが、そんな誰かの心に寄り添えたら、僕の疲れにも意味があったと信じたい。
疲れた時は、まず「疲れた」と言う練習から
いきなり誰かに頼るのは難しくても、「疲れた」と言葉にするだけでも少しは楽になる。僕は最近、夜にこっそり「疲れたな」とつぶやくようにしている。聞いてくれる人がいなくても、自分の声で自分の状態を確認するだけで、不思議と少し落ち着くから。
誰かに気づいてほしいときにできる小さなサイン
全部を言わなくていい。でも、ちょっとしたサインを出してもいい。たとえば、昼休みにちょっと長めに座り込んでみる。いつもより言葉数が少ない日を作る。そんな小さな変化が、誰かの目に止まるかもしれない。気づかれたくないのに気づいてほしい。そんな矛盾を抱えて生きる僕たちは、今日も静かにがんばっている。