電話のベルが鳴るたびに、心臓がぎゅっとなる話

電話のベルが鳴るたびに、心臓がぎゅっとなる話

受話器の向こうにいる“誰か”が怖い

司法書士をやっていて避けて通れないのが「電話対応」。でもね、正直に言えば、もう電話のベルが鳴るだけで心臓がぎゅっと締め付けられるんです。まるで爆弾のスイッチでも入っているかのように。受話器を取る手が震えるのを、誰が想像するでしょう。冷や汗は背中を伝い、第一声を発するまでに何秒もかかる。そんな自分に嫌気がさす。でも怖いものは怖い。怒鳴られるんじゃないか、責められるんじゃないかと、勝手に不安が先走るんです。

昔はこんなじゃなかった──電話対応の変化

駆け出しのころ、まだ勤務司法書士だった頃は電話なんて楽勝でした。むしろ自分宛に電話がかかってくるのがうれしかったくらいです。「あ、やっと一人前に扱われてる」と思えた瞬間でもあった。でも、ある時から様子が変わっていきました。内容は覚えていませんが、激しいクレームの電話を受けたのがきっかけだったと思います。「こんな仕事のやり方して、責任取れるのか?」と怒鳴られた。あの一言で、電話の向こうは“爆発の予兆”になってしまったのです。

新人の頃は電話が鳴るたびに喜んでいた

司法書士事務所に入ったばかりの頃、電話は「チャンス」でした。自分の名前を呼ばれて、相談者と直接話せる。業務の入口に立ったような誇らしい感覚がありました。でも今思えば、あれは責任を知らなかったからです。何を話しても、最終的には先輩やボスがフォローしてくれる。気楽なポジションだったんです。独立してからは、電話の意味合いが一気に変わりました。一言一言が、ダイレクトに自分の責任になるという重み。喜びは恐怖に変わっていきました。

あるクレームから全てが変わった

一度だけ、かなり強烈なクレームを受けたことがあります。相続登記の案件で、書類の到着が少し遅れただけだったんですが、「おたく、信用できんわ!」と怒鳴られ、何を言っても遮られました。電話を切った後、しばらく何も手につかなくなったのを覚えています。それ以来、電話が鳴るたび「また責められるんじゃないか」という思考がよぎるようになりました。トラウマって、こうやって地味に日常に染み込んでくるものなんだなと、身をもって知りました。

「声」だけで怒りをぶつけられる理不尽

顔が見えないって、ほんとうに怖いんですよ。相手の感情が声のトーンひとつで増幅して届く。こっちは事務所に一人きりで、逃げ場もない。電話越しの怒鳴り声には、密室で壁に向かって怒鳴られているような圧がある。冷静に言えば、たかが電話です。でも、心の奥では「もう聞きたくない」と本気で思っている自分がいます。理不尽だと思っても、それが“仕事”である限り、やめる選択肢がないのが苦しいところです。

顔が見えないぶん、過激になる人たち

人って、顔が見えないと強くなるんでしょうね。電話という匿名性が、相手の怒りを増幅させる。実際に目の前にいたら、そんな怒り方しないだろうにと思うこともしばしば。逆に言えば、こっちは無防備なんです。怒鳴られても、笑って対応しなきゃいけない。耐えるしかない。電話一本で1日分のエネルギーを吸い取られるような気持ちになります。たかが声。でも、その「たかが」が日々のダメージとして蓄積されるんです。

逃げ場のない受話器の中の戦場

事務所は小さいし、基本ワンオペ。事務員さんはいるけれど、相談は自分で出るしかない。電話が鳴ったら、それは「戦場のサイレン」みたいなものです。逃げ場がないんです。逃げたら終わり。逃げたら信用を失う。だからこそ、今日もまた受話器を手に取る。でも本音を言えば、電話対応専門のロボットでも置いておきたいくらい。誰か代わりに怒鳴られてくれと思うことすらあります。

「電話恐怖症」という言葉で片づけないでほしい

ネットで「電話恐怖症」なんて検索すると、ちょっと笑い話っぽく扱われていたりもします。でも、こっちにとっては笑えない現実です。単なる苦手意識とは違う。トラウマなんです。声に、過去の怒鳴り声が重なって聞こえてくる感覚。反射的に萎縮してしまう自分に、自分自身がまた嫌気がさす。この連鎖を、誰かに理解してもらいたくて書いています。

これは単なる苦手じゃない、“トラウマ”だ

「慣れれば平気になるよ」と言う人もいます。でもね、10年やっても平気にならないものはあります。とくに怒鳴られる系の記憶は、強く焼きついて残るものです。音と感情は結びつきやすい。だから電話のベルがトリガーになるんでしょうね。単に緊張する、じゃなくて「身体がこわばる」。これってもう、ただの苦手を超えてると思うんです。

同業者でも意外と共感してくれる人は少ない

同じ司法書士の仲間でも、意外と「電話怖い」って話してもピンとこない人が多いです。みんな強く見せるのが上手なのか、本当に慣れてしまっているのか……。でも中には、ぽろっと「わかるよ」と言ってくれる人もいます。その一言に救われる。だからこそ、あえて書いてみました。もしかしたら、誰かの「言えなかったけど、同じです」に届くかもしれないと思って。

事務員に押しつけられない事情

事務員さんに電話対応を丸投げできれば、少しは楽かもしれません。でも現実はそううまくいかない。登記の内容について、詳細に答えられるのは自分だけですし、トラブルになれば最終責任も自分です。事務員さんにすべて任せるのは、結局あとで自分が苦労するだけ。だから、自分が出るしかないんです。逃げたくても、逃げられない構造ができあがっている。これがまた、しんどさを倍増させてます。

結局、最後は自分が出るしかない

事務員さんが「代表におつなぎします」と言えば、こちらの出番です。電話を受けた瞬間の、あの空気の重たさ。怒ってるな……と察するときの気まずさ。声を聞いただけで「あ、地雷だ」とわかるあの感じ。それでも、受話器を取らないわけにはいかない。逃げても後でメールが来るだけ。だったら、最初から自分で受けたほうがまだマシなんです。あきらめの境地です。

それでも、電話を切らない理由

ここまで書いておいてなんですが、それでも電話は取ります。逃げたいのに、逃げられない。じゃあなぜかと聞かれたら、やっぱり「誰かが困っている」ことが多いからです。怒鳴る人ばかりじゃない。むしろ、その向こうにある「助けてほしい」に応えるために、今日も受話器を取っているんだと思います。矛盾してるけど、それが現実です。

“誰かの困りごと”が、その先にあるから

思い返せば、怒鳴られることよりも、「助かりました」と言ってもらえた電話の方が、心に残っています。人は怖い。でも、人にしか救えない瞬間もある。司法書士という仕事を選んだ時点で、きっと“人の問題”に向き合うことは宿命なんでしょうね。電話を通してその一端を担っていると、そう思いたい気持ちもあるんです。

司法書士だからこそ、逃げられない場面もある

法律のプロとして、最後に頼られる存在になる。その責任と孤独を日々感じています。電話の向こうで怒られるのも、もしかしたら信頼があるからかもしれない。そんなふうに思える日は、少しだけ楽になります。トラウマは消えないけれど、受話器を取るたびに、自分なりの戦いをしている気がします。今日もまた、鳴る電話に震えながら、応えています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。