ひとり飯がうまくなってしまっただけの話

ひとり飯がうまくなってしまっただけの話

ひとり飯がうまくなってしまっただけの話

あの頃は、コンビニ弁当でもごちそうだった

司法書士になりたての頃、金も時間も余裕がなかったけれど、それでも毎日の食事は楽しみだった。特に誰かと一緒に食べる時間は、仕事の愚痴を言える貴重なひとときでもあった。味がどうこうより、「誰かがいる」だけで満たされた気がしたものだ。今はどうだろう。温かい弁当を食べていても、どこか味気ない。ひとりの時間に慣れすぎて、あの頃の「誰かと食べる美味しさ」を忘れかけている。

誰かと食べれば、味も記憶も変わる

たとえば、新人時代に先輩と行った定食屋。メニューは毎回違ったが、味よりも、笑いながら話した内容のほうがよく覚えている。何気ない会話が、ご飯の味を引き立てていた。特別な料理じゃなくても、「誰かと一緒」だったからこそ記憶に残っているのだ。味そのものより、食べる状況や相手との関係性が、食事の印象を大きく変えることを痛感する。

司法書士になりたての頃、先輩と食べた駅前のそば

初めて登記ミスをして怒られた日の帰り、駅前の立ち食いそば屋に先輩が連れて行ってくれた。「まあ、最初はみんな通る道だよ」と言われながら食べたかき揚げそば。正直、麺は延びていて汁もぬるかった。でも、あの一杯がなぜか忘れられない。「許された気がする」そんな感情が、そばの味を補っていたのだと思う。

忙しくても誰かと食べると、なぜか心がほぐれてた

修習中はとにかく毎日がバタバタだったが、それでも同期と一緒に食べたランチだけは救いだった。たわいもない話をしながら、お互いの進捗に笑ったり落ち込んだり。それだけで「自分はひとりじゃない」と感じられた。誰かと一緒に食べることは、孤独から一時的にでも解放される手段だったのだろう。

今では「温めますか?」の声すら懐かしい

最近では昼ご飯にコンビニ弁当を買って、事務所のデスクで食べることがほとんどになった。レンジの「温めますか?」という店員の声が、妙に温かかったことを思い出す。今はセルフレジでその声すら聞こえない。ただただ黙って、電子音に囲まれて食べる毎日。機械は便利だけれど、どこか味気ない。

昼は机でひとり、夜は冷えた惣菜

顧客対応が長引いて昼食が15時になることもある。そうなるとデスクで冷えた弁当を黙々と詰め込むだけだ。夜はスーパーで割引になった惣菜を買って帰り、テレビもつけずに済ます。食べた気がしない日もあるけれど、それが日常になっていることに、ふとした瞬間に気づいて虚しくなる。

味じゃない、孤独が味を変えていく

味覚って正直なもので、心が沈んでいるときは何を食べても「まあまあ」にしか感じない。逆に、気分が明るいとインスタントラーメンですら妙にうまい。つまり、食事の「美味しさ」って味だけの問題じゃない。孤独がじわじわと、日々の味を薄めていくのだ。そんな当たり前のことに、ひとりでいる時間が長くなってようやく気づいた。

孤独のスキルが上がると、鈍るものがある

ひとりでいる時間に慣れてしまうと、それが当たり前になる。でもそれは同時に、人との関わりを避ける癖をつけてしまうことでもある。話す機会も減り、聞く力も落ちる。そうして、他人の感情の機微に鈍感になっていく。仕事の上では効率的かもしれないが、人としては何かを失っている気がしてならない。

「慣れた」だけで、満たされたわけじゃない

気を遣わず、好きなタイミングで食事ができる「ひとり飯」は、確かに楽だ。しかし、楽な分だけ空虚さも増す。気づけば、スマホを見ながら無意識にご飯をかき込んでいる。誰とも言葉を交わさずに一日が終わる日もある。それでも「慣れてしまったから」と自分に言い聞かせているけれど、それは本当の意味で満たされているとは言えない。

気を遣わなくて済む食事は、楽なようで寂しい

誰かと食べれば、相手の好き嫌いやペースを気にする。でもその気遣いが、食事という行為を「共有する時間」にしてくれていたのだと思う。ひとり飯は気楽だけれど、そうした感情のやり取りがない。ただ「栄養を摂る」という行為に過ぎなくなってしまうと、心まで栄養失調になっていく。

人と話す時間がないと、噛む回数も減る気がする

妙な話だが、ひとりで食べているときは噛む回数が少ない気がする。話す相手がいれば自然とペースも落ちて、食べる時間も長くなる。でも、ひとりだと流し込むように食べてしまう。味わうという行為自体が、人との関係性の中で育まれていたのかもしれない。今は、ただ口を動かすだけの食事になっている。

「誰かと食べる」が贅沢になった時代

コロナ以降、外で誰かと食べるということが少し特別なものになった気がする。たまに誘われても、つい「忙しいので」と断ってしまう自分がいる。気づけば、誰かと一緒に食事をすることが、贅沢に思えてくるほどになっていた。昔はそんなこと考えもしなかったのに、時代の変化とともに「当たり前」が変わってしまったのだ。

仕事が忙しいだけで、会話の食卓が遠のく

「今日は外回りで遅くなるから、昼は事務所で済ませよう」「今週は登記が立て込んでるから誰にも会わないでおこう」…そうしているうちに、会話のある食卓が遠ざかっていった。自分では「仕方ない」と思っていても、あとから振り返るとそれは言い訳だった気もする。忙しさのせいにして、心の余裕を削っていたのかもしれない。

家族の話題に乗れない、ひとり暮らしの司法書士

世間話の中で「昨日、子どもがさ~」とか「妻がこんなこと言ってて」なんて話題が出ると、自然と笑って相槌は打つけれど、内心では「自分には関係ないな」と距離を感じてしまう。孤独に慣れるというのは、そうやって話題の範囲が狭まっていくことでもある。誰かと食べる食卓の話題すら、他人ごとになっていく。

「昼、一緒にどうですか?」って言ってくれる人がいない

昔は同僚や同期がいて、自然と「昼どうする?」というやり取りがあった。でも独立してからは、それがない。事務員に声をかけるのもなんだか気が引けるし、結局は「今日もひとり」で終わる。別に嫌われてるわけじゃないとわかっていても、誰からも誘われないという事実は、じわじわと自尊心を削ってくる。

事務員さんとの雑談が、ちょっとした救いだったりする

そんな中で、唯一の事務員さんがふと「先生、お昼もう食べました?」と声をかけてくれることがある。その一言に、なんだか救われたような気がする。別に一緒に食べなくてもいい。ただ「気にかけられている」という事実が、思っている以上に大きい。誰かと食べることの意味って、案外そんな小さなやり取りに詰まっているのかもしれない。

だからこそ「誰かと食べる」時間を意識してみる

結局、意識しなければ「誰かと食べる時間」はどんどん減っていく。仕事も大事、効率も大事。でもたまには、あえて誰かを誘って一緒にご飯を食べてみてもいいじゃないか。気まずくても、面倒でも、その一食が心の飢えを満たしてくれることだってある。そう思えるようになったのは、ひとり飯に慣れすぎてしまった今だからこそ、かもしれない。

無理してでも誰かとランチ、意味はある

正直、誰かとランチをするのはエネルギーがいる。でも、それでも「一緒に食べる」だけで、気分が前向きになったり、仕事に戻る足取りが軽くなったりする。たまには予定を詰め込みすぎず、食事の時間に余白を持たせてみる。それだけで、心の疲れ方が変わってくる気がする。

コンビニじゃなくて、店で誰かと

昼休みに少し足を延ばして、近所の喫茶店や定食屋に入る。誰かと一緒に、メニューを選んで、同じものにしたり違うものにして笑い合ったり。たったそれだけのことで、午後の疲れが違ってくる。味はともかく、会話というスパイスが添えられた一食は、なんとも贅沢だ。

「食事=業務外」の時間をどう扱うか

事務所をやっていると、ついすべてが「仕事の一部」になってしまう。昼休みも顧客対応をしてしまったり、電話をかけたり。でも、せめて食事の時間くらいは「業務外」にしてみるべきだと思う。誰かと食べることを「時間のムダ」と思うようになったら、心が擦り減っていくばかりだ。

たった一食で、気分が変わることがある

昔のように毎日は無理でも、週に一度だけでも誰かと食べる時間を作ってみる。それだけで、日常が少しずつ変わっていくかもしれない。誰かとご飯を食べるのに理由なんていらない。ただ、「なんか今日は誰かと食べたいな」と思ったら、その気持ちを素直に受け取ってあげること。それだけでも、十分なのだと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

久しぶりに泣いた夜

久しぶりに泣いた夜

心が壊れそうになった夜に

誰にも見せていない顔がある。司法書士として働く中で、感情を抑え込むのが当たり前になってしまっていた。泣くなんて、時間の無駄だと思っていたし、誰かの前で弱音を吐くのは「負け」だとすら思っていた。そんな自分が、ふとした夜、机に突っ伏して涙を流していた。静かな夜だった。音もない。仕事も終えていた。ただ、何もかもに疲れ果てた心が限界を迎えていた。

誰にも言えない重さに耐えて

「責任感がある人ほど壊れる」って、よく聞くけど、自分には関係ないと思っていた。けれど、ある日を境に、それが他人事じゃなくなった。お客様の相続の話、後見の判断、登記のミスが許されないプレッシャー。事務員さんにさえ気を遣い、愚痴ひとつ言えない自分がいた。独立して自由を得たはずなのに、心はどこか窮屈だった。

孤独な決裁者としての現実

司法書士事務所の所長という肩書は、一見すれば立派に見えるかもしれない。でも実際は、何かトラブルが起きれば、全部自分の責任。最終判断を下すのはいつだって自分だ。夜遅くまで悩んで、一人で結論を出して、それが正しかったかどうかも誰も教えてくれない。自己判断と自己責任の連続に、どこか心がすり減っていった。

誰かに相談したくてもできない理由

相談できる人がいないわけじゃない。同期の司法書士もいるし、事務員さんだって頼れる人だ。でも「相談=弱さの露呈」という思い込みが、僕の口を閉ざす。仕事で関わる相手にも、自分の弱さなんて見せられない。誰かに頼ればいいって言われても、「頼る」という行為に慣れていない。だから、ずっと黙って、苦しいのに苦しくないふりをしていた。

愚痴の一つも吐けない日々

ふと、コンビニのレジで並んでいるとき、前の人が店員に「今日も疲れたー」と笑いながら言っていた。その一言が、ものすごく羨ましかった。僕は仕事終わりに誰かと会話することすらない。愚痴なんて吐いたら、全部自分がダメになりそうで怖い。だから言わない。でも、その「言わない」が心の奥で澱のように積もっていた。

「泣く暇があったら仕事しろ」の呪縛

若いころ、尊敬していた先輩が言った言葉がある。「泣く暇があったら仕事しろ」って。今もその言葉が頭から離れない。どんなに辛くても、手を止めることが悪だと思っていた。泣くなんて、時間の無駄。そんなふうに思っていた。でも、あの夜、涙が勝手に流れて止まらなかった。あれは無駄だったんだろうか?いや、今なら少し違う気がしている。

泣いてしまったきっかけ

あの夜、仕事を終え、風呂にも入って、ようやく一息つけたと思ったとき。テレビでやっていたドキュメンタリー番組の中で、母親を亡くした少年が言った。「お母さんは、最後まで僕のこと心配してくれてた」。その言葉が、胸のど真ん中に刺さった。僕は誰かにそんなふうに思われているだろうか?そんな問いが、ふいに涙を誘った。

ふと見たテレビの一言

ドキュメンタリーなんて普段見ない。でもその夜は、リモコンの電源を切ることすら億劫で、つけっぱなしにしていた画面から聞こえてきたその一言。「がんばってるね」。少年に向けたその言葉が、なぜか僕に向けられたように感じた。あの一言だけで、心の奥に隠していた何かが崩れてしまった。涙って、音もなく流れるんだなと思った。

「頑張ってるね」の一言に崩れた自分

「頑張ってるね」。たったそれだけ。でも、日々「頑張って当然」と思われる職業で、誰かからそう言われることなんてまずない。自分自身でさえ、自分に「頑張ってる」なんて言ってやることはなかった。だからこそ、その一言が刺さった。あの瞬間、自分がどれだけ認められたかったか、気づいてしまった。

積もり積もったものが決壊する瞬間

我慢の限界って、じわじわくるもんじゃなくて、ある瞬間に突然くる。堤防が決壊するみたいに、ドッと。僕にとってそれが、テレビのたった一言だった。仕事でのストレス、孤独、責任、将来への不安、全部がひとまとまりになって、涙となってあふれ出た。泣くのは弱いことだと思っていた。でも、今ならわかる。あれは自然な反応だった。

司法書士という仕事のしんどさ

正直言って、司法書士の仕事はしんどい。お金の管理、遺産の処理、成年後見、登記、不動産の名義変更。どれもミスは許されないし、感情を挟むこともできない。でも、相手は人間だし、話はどれも重たい。心が削れる。それでも「専門職だから当然」と言われれば、それまでだ。僕らの苦労は、なかなか表には出てこない。

「先生」と呼ばれることのプレッシャー

司法書士って、よく「先生」って呼ばれる。ありがたいことなんだけど、正直なところ、しんどい。先生と呼ばれるだけで、完璧を求められる空気がある。でも、人間だから間違えることもあるし、疲れてることもある。だけど、それを許されない雰囲気がある。だから「先生」という言葉に、自分が潰されそうになることもある。

ミスが許されないという地獄

司法書士の仕事って、一文字の間違いでもトラブルになることがある。登記漏れや日付ミス、間違えた住所。全部、自分の責任。裁判沙汰に発展することもある。だから常に緊張感がある。でも、その緊張感がずっと続くと、心も身体も持たない。集中して、確認して、さらに確認して。それでも不安になる。そんな日々が続く。

すべてを背負うという孤独な戦い

ひとりでやっているからこそ、すべてを自分で決められる。でも、それは同時に、すべての責任が自分にあるということ。間違えても、ミスをしても、誰もフォローしてくれない。事務員さんには言えないし、相談相手もいない。そんな中で、ひとりで戦い続ける日々。戦っている相手は、外じゃなくて、自分の中の不安とプレッシャーだ。

泣いたことに救われた夜

泣いたことを誰かに話したわけじゃない。でも、あの夜の涙が、どこかで僕を助けてくれた気がする。泣いたあとの空気が少しだけ軽くなった気がした。人間らしさを取り戻したというか、自分もただの一人の人間なんだと再確認できたような気がした。あの夜がなければ、もっと硬くなって壊れていたかもしれない。

涙が流れたことで気づけたもの

涙が出たあと、ふと思った。「自分、疲れてたんだな」って。それだけでも、救いだった。自分の状態に気づかないまま働き続けるのって、一番危ないと思う。無理をしてる自覚がないまま、限界を超えてしまう。あの夜、泣けたことで、自分の「しんどい」に気づけた。だからこそ、ちょっとずつでも、変えていけるかもしれないと思えた。

強がることに疲れていた自分

ずっと「大丈夫なふり」をしていた。強がっている自分が、当たり前になっていた。でも本当は、誰かに「大丈夫?」って聞いてほしかった。聞かれたら泣いてしまうから、聞かれないように振る舞っていた。自分で自分を守っていたつもりが、いつの間にか自分を追い詰めていた。泣いた夜、それにようやく気づけた。

もうちょっとだけ肩の力を抜いてみようか

これからもきっと、しんどいことはある。仕事が楽になることなんて、ないかもしれない。でも、泣いてもいいし、休んでもいい。強くあろうとしすぎなくてもいい。そう思えたことで、少しだけ、呼吸がしやすくなった。司法書士という仕事を続ける上で、必要なのは、法律の知識だけじゃない。自分を守る術も、大切なスキルだと思った。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。