事務所に缶詰めだから出会いがない

事務所に缶詰めだから出会いがない

気づけば一日中誰とも話さずに終わる日

司法書士の仕事は人と会って話す仕事だと思われがちだけれど、実際にはパソコンの前でひたすら書類を作る時間のほうが圧倒的に長い。気づけば朝から晩まで誰とも話さずに、淡々と登記簿とにらめっこして終わることもある。電話すら鳴らなければ、本当に声すら発しない日になる。そういう日が続くと、ふと「このままでいいんだっけ?」と、自分の人生を振り返ってしまう。

相談予約のない日は声すら出していない

面談の予約が入っていない日、私は朝から無言でパソコンを開き、無言で書類を印刷し、無言で押印し、無言でファイルに綴じていく。夕方になってふと気づく、「今日、声出してないな」と。喉がかすれているような気さえしてくる。人と話すことがないまま一日を終えるのが日常になっている。誰かと会話するって、実は心のリハビリにもなってたんだなと、失ってから気づいた。

「誰かと話したい」と思うことすら減ってきた

最初は寂しさを感じていた。でも、だんだんと慣れてきて、今では「誰かと話したい」という気持ちすら湧かなくなってきた。それはある種の防衛反応なのかもしれない。どうせ出会いもないし、どうせこの生活は変わらない。そう割り切ることで、寂しさを麻痺させている。だがその裏には、「自分はもう人と関わるステージにはいないのかもしれない」という諦めもある。

孤独に慣れすぎる危うさ

孤独に慣れてしまうのは、ある意味では強さだけれど、同時に危うさでもある。誰かと時間を共有することの煩わしさを避けるようになり、結果的に自分の世界をどんどん狭めてしまう。そうやって狭く、深く、静かになっていく日常に、何の違和感も覚えなくなったとき、「あれ、自分ってもう一人で生きるしかないのか」と、ふと立ち止まってしまうことがあるのだ。

朝から晩まで事務所にいるという現実

司法書士の仕事は思っている以上に「出歩かない」仕事だ。書類はネットで請求できるし、申請もオンラインでできる。事務所さえあれば、すべてが完結する。つまり、外に出なくても何も困らないのだ。便利なようで、実はそれが“出会いのなさ”を助長している。人とすれ違うことすらない。ふと窓の外を見ても、誰とも視線が合わない。それが毎日、繰り返されていく。

昼休みもコンビニで済ませてすぐ戻る

昼ごはんはだいたいコンビニ。近くの店舗に車で行って、おにぎりとコーヒーを買って5分で戻る。顔見知りの店員さんと軽く会釈するだけで、あとは無言。お昼に誰かとランチに行くなんてのは、年に1回あるかないか。だいたい書類を眺めながら急いで食べて、すぐ仕事再開。会話ゼロ、刺激ゼロの昼休みが、気づけば日常になっていた。

通勤も車だから誰ともすれ違わない

通勤も完全に車。家から事務所までドアツードア。朝の景色も、帰りの景色も、同じ道、同じ時間。電車での通勤なら、誰かとすれ違ったり、小さな偶然があるかもしれない。でもこの生活には、そういう“偶然の出会い”が一切ない。誰かにぶつかって「すみません」なんて言葉を交わすことすらない。だから、恋愛とか結婚とか、そういう話が完全に遠い世界のものに感じる。

外界との接点がゼロに近づいている

昔は休日に出かけることもあった。でも今では、外に出るのすら億劫になってきた。仕事が忙しいというより、出ても何も起きないから出る意味を見出せない。そうやって外界との接点がどんどん減っていくと、「このまま誰にも会わずに歳をとっていくのかな」と、急に怖くなる夜がある。気づいたときにはもう、孤独に飲まれていた、なんてことになりそうで。

唯一の話し相手は事務員さんだけ

事務所にいるのは、自分と事務員さんのふたりだけ。普段は黙々と仕事をしているので、会話といえば業務連絡がほとんど。たまに雑談を振ってくれるけど、こっちに余裕がないとそれすらうまく返せない。だから結局、「誰かと話す」「心を通わせる」機会が圧倒的に少ない。そして、気づけば自分の中から“他人と関わろうとする意欲”がごっそり抜けていた。

雑談をする余裕もなくなってきた

「最近暑いですね」と言われて、「あ、はい」としか返せない。笑顔を作るのもしんどい。そんな日が続くと、事務員さんとの距離もどこか冷えてくる。こちらが無愛想になってしまっているのはわかっている。でも、仕事に追われていると、雑談に割くエネルギーすら残っていない。そんな自分が嫌になって、ますます孤独に拍車がかかる。

気を遣わせてしまっているという罪悪感

事務員さんは気を遣ってくれているのがわかる。「今日は話しかけない方がいいかな」という雰囲気を読んでくれる。でも、それが逆につらい。「気を遣わせて申し訳ない」という罪悪感が積み重なって、ますます気まずくなってしまう。誰とも話さない日常に、自分が望んだわけじゃない孤立感が生まれている。それを打ち破る力が、今の自分にはない。

休日も疲れて寝て終わる

土日が来ても、何もする気になれない。午前中は布団から出られず、午後は録画していた番組をぼーっと見るだけ。出会いの場に行こうなんて思っても、「また気まずい思いをするだけだろう」と、勝手にあきらめてしまう。人と話すことすら億劫なのに、新しい出会いなんて無理じゃないか。そんなふうに、自分で自分の世界を狭くしてしまっている。

「出会いの場」に行く気力が残らない

街コンとか婚活イベントとか、調べたことはある。でも、いざ申し込み画面まで進んでも、指が止まる。「年齢的に浮くだろうな」「どうせ会話も続かないし」などと考えて、結局やめてしまう。仕事で疲れて、休みに気力を振り絞ることがもうできない。若い頃なら勢いで行けたかもしれないけど、今はその一歩があまりに重い。

頑張って外出しても気まずさが先に来る

たまに「今日は外に出よう」と決意して、カフェやイベントに足を運んでみても、どこかで自分だけ場違いな気がしてくる。みんな誰かと楽しそうに会話している中で、自分だけが浮いている。無理に話しかけても空回りして、帰り道で自己嫌悪に陥る。そんな経験が積み重なると、もう外に出る気持ちすら失われていく。

年齢的に何をどうしたらいいのかわからない

40代半ばにもなると、「出会いましょう」みたいな空気の場所に行くだけで、どこか居心地が悪い。同年代の人もいるはずなのに、周囲が若く見えて、自分だけが“もう遅い”感を背負っている気がする。「婚活」「恋活」といった言葉が、自分には遠すぎる。それでも、心のどこかでは、誰かと出会いたいと思っている。その矛盾が、ただただ苦しい。

このままでいいのか?という問い

ふとした瞬間に「このまま一人でいいのか?」と自問する。答えは出ない。でも、ずっとこの状態が続くのは嫌だな、とも思う。仕事は充実している部分もあるけど、それがすべてじゃない。家に帰って、何気ないことを話せる誰かがいたら――そんな願望は、年々強くなってきている。

婚活サイトに登録しようとして辞めた話

ある晩、思い切って婚活サイトに登録しようとした。でも、プロフィール写真を選んでいる途中で、「こんな自分が誰かの対象になるわけがない」と思ってやめた。あまりに自信がなさすぎて、最初の一歩すら踏み出せなかった。そのあとしばらく、気分が沈んでしまって、結局また元の生活に戻った。何も変わらないまま、時間だけが過ぎていく。

誰かと生きる未来が本当に欲しいのか

本当は誰かと一緒にいたい。でも、今の生活を変えるのが怖い。寂しいけど、ひとりが楽な部分もある。この中途半端な気持ちが、行動を止めてしまう。ただ、たまに見かける老夫婦の姿や、子ども連れの家族を見て、「ああいう未来があったらよかったな」と思う。自分にもまだチャンスがあるなら、少しだけでも足を踏み出してみるべきなのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。