昔は“孤独”がご褒美だった
かつての私は、ひとりで過ごす時間が何よりの癒しだった。仕事が終わったあとに誰にも会わず、自分のペースで食事をして、本を読んで、寝る。そんな一人のルーティンが心地よかった。誰かと約束する必要も、気を使う必要もない。「自由って最高」と思っていたし、むしろ一人じゃないと落ち着かなかった。だから、“孤独”という言葉にすら、どこか優越感を持っていたのかもしれない。
ひとりカフェ、ひとり居酒屋、ひとりドライブ
世間では「ひとり○○」が流行り出した頃、自分はすでにその先をいっていた気がする。スタバでひとり読書なんて当たり前。居酒屋でもカウンターで静かに飲み、誰にも邪魔されない時間を楽しんでいた。休日にふと思い立って山の方へドライブに行くこともあった。「一人で行動できる俺って大人だよな」とか、今思えばちょっと痛い自画自賛をしていた。
話しかけられないのが、むしろ快適だった
店員さんとのちょっとした会話すら「面倒くさいな」と感じていた時期がある。黙って注文、黙って会計。誰とも話さない時間が、自分にとっての“回復”だった。でも、最近になって、あの静けさが「寂しさ」に変わってきた気がする。昔は快適だったのに、今はどこか虚しい。そんな違和感に気づき始めたのは、きっと歳のせいだけじゃない。
変わり始めたのは、たぶんコロナの頃から
あの感染症が社会を襲ってから、強制的に「会わない生活」が当たり前になった。司法書士という仕事柄、もともとオンライン化は進んでいたけれど、それでも対面の案件が急減し、誰とも顔を合わせない日が続くようになった。最初は楽だと思った。でも、ふとしたとき、誰とも目が合っていないことに気づいたとき、胸の中がざわついた。
人と会わないことが「日常」になってしまった
人と話さないことが「特別」ではなく、「当たり前」になったのが大きかった。以前は一人でいるのも、自分で選んでいたから気楽だった。でも、今は「選べない孤独」になっている気がする。電話越しの声、メールのやりとり。それだけで日々の仕事が終わっていく。人と会わずとも成立する仕事って、逆にこんなに味気なかったんだなと痛感した。
仕事はある、でも会話はない
不動産登記も、相続登記も、ひたすら書類作業。事務員さんとのやりとりも、業務連絡が中心で、雑談はほとんどない。相手も気を遣ってくれてるのか、プライベートの話題なんてめったにしない。「司法書士って、人と関わる仕事のはずじゃなかったっけ?」と、ふと疑問が湧く。でも、いまさら方向転換するほどの若さもない。
誰とも話さない日が、ちょっと怖くなってきた
気づけば、一日中声を出さない日もある。それが何日も続くと、喉の調子すら悪くなる。「俺、ちゃんと人間として生きてるのか?」そんな気持ちになる。前はそれが“快適”だったのに、今は“孤立”と感じてしまうあたり、自分の中で何かが確実に変わっているのだと思う。
事務員さんの声が唯一の“生活音”
朝、出勤してきた事務員さんの「おはようございます」の一言が、その日最初の人の声。下手したら、それが唯一の会話になることもある。彼女が休みの日には、本当に静かすぎて、電話の音にすらビクッとする。誰かの存在って、こんなにも心の支えになるんだなと、今さらながら実感している。
電話が鳴らない日、鳴っても営業ばかり
せっかく電話が鳴っても、大抵はSEO業者かリース会社の営業電話。以前は「またか」とうんざりしていたが、最近は「声が聞けるだけありがたい」とさえ思えてしまう。会話の内容より、声が届くこと自体にホッとしている自分が、ちょっと情けなくもある。
その営業電話に、少しだけホッとしてる自分がいる
「お忙しいところ失礼します!」というあの元気な営業トーン。前は眉をひそめていたけど、今では「お、誰か俺に話しかけてくれてる」と、少しだけ心が温かくなる。もちろん営業だとわかっている。でも、画面越しではなく、生の声が聞こえる瞬間に、人と繋がってる気がしてしまうのだ。
このまま、老後を迎えるのかな
40代も半ばを過ぎると、将来の姿がリアルに想像できるようになる。毎日変わらぬ書類と格闘し、夕方にはコンビニ弁当を片手にテレビを眺める。休日はスーパーとガソリンスタンドを往復して終わる。そんな“孤独の熟成”みたいな老後が、確実に近づいている気がする。
“自由”の先にあるのは、“孤独死”の2文字
自由を追い求めてきたつもりだった。でも、最近では“自由”という言葉に“孤独死”が付きまとうようになった。好きに生きて、好きに死ぬ。そんな言葉が、ただの強がりに聞こえてきた。実際、倒れたら気づく人はいないかもしれない、なんて想像が頭をよぎる夜がある。
同業者との会話は、年々お通夜モードに
同年代の司法書士との会話も、話題は健康と老後と後継者問題ばかり。若い頃のような勢いはなく、会えばお互いの疲れを慰め合うだけ。それでも、そういう会話すら今はありがたい。孤独の中にいると、「同じように悩んでる仲間」がいることが、何よりの救いになる。
それでも仕事だけは、相変わらず忙しい
不思議なもので、愚痴ばかりこぼしつつも、仕事は絶えずある。ありがたいことに、地域の人たちからの信頼は厚い。だけどその分、頼られすぎて身動きが取れない。自由な時間があっても、どこか罪悪感がつきまとう。仕事がある限り、寂しさを感じずに済む──それが今の支えなのかもしれない。
手続きに追われているうちは、孤独を忘れられる
朝から晩まで、書類の山と向き合っているときは不思議と寂しさを感じない。手を動かして、頭を使って、集中していると、心の空白が埋まるような感覚になる。だから今日もまた、書類と印鑑とパソコンに囲まれて、一人事務所で机に向かっている。
モテないことに、慣れたフリをしていた
昔から女性にモテた記憶はない。でも、それを「別に気にしてない」と思ってきたし、口に出して自虐できるくらいにはネタにしていた。でも本当は、どこかで「誰かに好かれたい」と思っていた。たとえ恋人でなくても、「あなたの話を聞かせて」と言ってくれる存在がいたら、人生はもう少し違ってたのかもしれない。
「一人が気楽」という言葉に逃げていたかもしれない
「一人が好き」という言葉の裏には、「一人しか選べなかった」という現実が隠れていたのかもしれない。気楽という言葉に逃げ込んで、自分を慰めていた。でも、それって本当に幸せだったのか?最近、そう思うことが増えてきた。
最後に:愚痴はあるけど、今日もなんとかやってます
結局のところ、こうして愚痴をこぼしながらも、仕事をして、飯を食って、生きている。それだけで十分すごいんじゃないかと思う日もある。笑ってしまうほど孤独な夜もあるけど、それでもなんとか前に進んでる自分を、少しだけ褒めてやりたい。
たまには、誰かとラーメンでも食べたいな
ふらっと入ったラーメン屋で、隣の席の親子が笑っている。それを見ながら一人でラーメンをすする夜。そんな日常にも、少しだけ温もりを感じる。きっと、自分が一人の時間を“好きだった”のは、心のどこかで“誰かとの時間”を求めていたからかもしれない。