この仕事、自分に向いてるのか…毎日問い続けている

この仕事、自分に向いてるのか…毎日問い続けている

向いてない気がしても、朝は来る

「向いてない」と思いながらも、朝は容赦なくやってくる。布団の中でため息をつき、ぼんやりと天井を見つめる時間が日課になっている。今日はどんな相談が来るのか、どんな無茶を言われるのか、想像するだけで胃が重い。それでも時間になれば、顔を洗ってスーツを着て、事務所のドアを開ける。そうやって、自問を繰り返しながらも仕事に向かう日々が続いている。

寝起きの重さが、もう答えかもしれない

毎朝、起きるのがしんどい。これは身体的な疲労というよりも、「今日もこの仕事をするのか」という精神的な重さだ。世の中の人たちが元気に出勤しているSNS投稿を横目に、自分の無気力さを感じる。眠りが浅くなり、夢の中でも登記や遺言の相談をしていたことがある。そんな夢から覚めたとき、「もしかして向いてないのかもな」と、心のどこかで認めている自分がいる。

「またあの依頼者か」と思ってしまった朝

ある朝、携帯に通知があって開いてみると、以前から対応が難しいと感じていた依頼者からの連絡だった。「すぐ話したいことがある」と。その瞬間、まるで心がズンと沈んだ。本来であれば依頼者の悩みに寄り添うべき立場なのに、「またか」と思ってしまう自分に嫌気が差した。この仕事をしている以上、人の問題を一緒に背負う覚悟が必要なのに、その覚悟が揺らいでしまった瞬間だった。

辞めたくなるのに辞めない不思議

何度も辞めたいと思った。でも実際には事務所を畳む決断は一度もしていない。それは生活のためか、それとも何か意地なのか。答えは出ないまま、今日も依頼を受けている。実際には辞めることで新しい不安が出てくるのが怖いのかもしれない。司法書士という肩書きにしがみついている自分を認めるのも辛い。でも、自分を守る手段が他にないという現実もまた、辞められない理由になっている。

事務所のドアを開ける手が、少し重い

毎朝、事務所のドアを開けるときに、なぜかほんの少しだけ躊躇する。小さな古いドアが、まるで何かを試すように私を見ている気さえする。あのドアの向こうには、電話、相談、登記、説明、調整、謝罪、請求…数えきれないタスクが待っている。すべてこなす必要があるのはわかっているけれど、そのすべてが本当に「自分に向いていること」なのか、疑問が拭えない。

誰にも言えない「開業して後悔したこと」

開業した当初は、自由が手に入ると思っていた。ところが現実は、休みは取りにくく、収入は安定せず、責任はすべて自分。相談者の顔色をうかがい、役所と戦い、ミスが許されない世界で、神経をすり減らす毎日だ。開業を後悔しているなんて、事務員にも家族にも言えない。でも、たまにふと「就職していたほうが楽だったかも」と思う夜があるのは、事実だ。

辞める勇気よりも、続ける惰性

「辞める」という選択肢は常にある。でも実際には、明日もまた同じ場所に向かってしまう。それは惰性か、恐れか、それとも責任感なのか。はっきりとはわからないが、「このまま続けるしかない」と思わせる何かがある。この惰性をポジティブに捉えるなら、継続力と言えるのかもしれない。でも本音を言えば、ただ動き出す勇気がないだけかもしれない。

「向いてない」と感じる瞬間の正体

向いていないかもしれない、と感じる瞬間は突然やってくる。それは依頼者とのやり取りで傷ついたとき、書類の不備で自分を責めたとき、あるいは同業者の成功を目の当たりにしたとき。ふとした瞬間に「俺、何やってるんだろう」と立ち止まってしまう。その繰り返しが、少しずつ心を削っていく。

人と関わるのが苦手、それでも接客業

司法書士というと、黙々と書類を作る職人のようなイメージを持たれがちだが、実際には「人と話す仕事」が大半だ。私はどちらかというと、人付き合いが苦手で、飲み会も嫌いだし、営業も苦手だ。それでも、この仕事をしていれば「会話力」が求められる。だから毎日、仮面をかぶったような笑顔で応対している。人と接することで疲れる自分と、笑顔を装い続ける現実のギャップが苦しい。

司法書士って、黙々とやる仕事じゃなかったの?

資格の勉強中は、書籍と六法とにらめっこしながら、静かな世界に没頭していた。だから、開業したら書類作成がメインだろうと思っていた。でも実際には、依頼者の相談を聞き、説明し、時には説得もしなければならない。説明が足りないと言われれば反省し、説明しすぎると煙たがられる。そんな絶妙なバランスに疲弊している。人付き合いが得意じゃない自分には、予想外の連続だった。

優しさが仇になる場面、多すぎませんか

「人が良さそう」と言われることがある。それは褒め言葉なのかもしれないが、仕事では武器にならないことも多い。優しさが仇になり、無理な依頼を断れずに引き受けてしまったことが何度もある。結果、トラブルになるのは自分。毅然と断れる同業者を見ると、「ああ、自分はやっぱりこの世界に向いてないのかも」と、また一つ自信を失っていく。

すぐ感情移入して疲れる体質

私はどうも人の話を真剣に聞きすぎる癖がある。依頼者が涙ながらに語る過去や家族の問題に、必要以上に心を動かされてしまう。その感情を持ち帰ってしまうから、仕事が終わっても気持ちが沈んだままになる。感情を切り離すことができれば、もっと楽になれるのにと何度も思った。でもそれができないから、余計に疲れてしまう。そしてまた「この仕事、向いてないのかな」と思ってしまう。

お客様の愚痴を一緒に引き受けてしまう

「先生、ちょっと聞いてくれます?」という前置きのあとに続く、家庭の悩み、相続の揉め事、人間関係の不満…。本来の業務とは関係ない話でも、つい頷いて聞いてしまう。「優しく聞いてくれてありがとう」と言われると、悪い気はしない。けれど、こちらの心はどんどんすり減っていく。その愚痴を夜になっても頭の中で繰り返してしまうのは、損な性分だ。

それでも断れない性格の損得勘定

自分でもわかっている。きっぱり断ればいいのだ。でも「断ったら悪いかな」「嫌われたら困るな」と考えてしまう。結局、引き受けて疲れて、後悔して、また自己嫌悪に陥る。この性格は、司法書士としては致命的なのかもしれない。でも、今さら変えることもできない。だから、そんな自分を受け入れるしかないのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

友達は結婚して、僕は法務局に通う日々

友達は結婚して、僕は法務局に通う日々

結婚式の案内状が届くたびに

ポストを開けると、ふとしたタイミングで結婚式の招待状が届く。表書きに「◯◯くんへ」と旧友の名前が印刷されていて、それを見た瞬間、心のどこかがぎゅっと締めつけられるような感覚になる。「ああ、また誰かが人生のステージを進んだんだな」と、素直に喜ぶべきところなのに、自分だけが取り残されているような気持ちになってしまう。他人の幸せを妬んでいるわけじゃない。ただ、比較しないでいるのは難しい。

地元の友達グループLINEがざわつく時

案の定、グループLINEが動き出す。「◯◯、結婚するってよ」「奥さんきれいだな〜」「二次会来る?」といったやりとりが続く。返信しようとスマホを握るけれど、なぜか指が動かない。うまいこと言えないし、正直、心からの「おめでとう」が言えるような余裕もない。こんなふうに感じてしまう自分に自己嫌悪する。結局、既読だけつけてそっとスマホを置く。誰も悪くないのに、苦しい。

誰と誰が結婚して、今どこに住んでるのか

かつて同じようにバカ話をして、夜通しカラオケで騒いでいた仲間たち。そんな友達が、今は家庭を持って、子どももいたりする。LINEに載せられる写真には、見知らぬ土地で笑顔を浮かべる友人とその家族。微笑ましいはずなのに、遠い世界のように感じてしまう。たまに「今どこ住んでるの?」と聞かれても、「ああ、相変わらず地元で法務局通ってるよ」としか言えない。

返信せずに既読スルーする理由

リアルのつながりが薄れると、連絡もおっくうになる。既読スルーは冷たい行為かもしれないけれど、傷つかないための自衛本能のようなものだと思っている。「ちゃんと祝福しなきゃ」「社交的にならなきゃ」と思う自分と、「もう放っておいてくれ」と思う自分がせめぎあっている。心のどこかで、「今さら自分が輪に入っていっても意味がない」と決めつけているのかもしれない。

比較する気はないけれど、してしまう

SNSを見れば、友人たちのライフイベントが流れてくる。「第二子誕生しました」「マイホーム建てました」「夫婦で京都旅行」…正直、どれも他人事に見えるのに、頭の片隅では「自分は何してるんだろう」と考えてしまう。自分は仕事に打ち込んできたし、好きでこの道を選んだはずなのに、誰とも共有できない日々が、少しだけむなしく感じる。

僕の朝は登記情報の確認から始まる

朝起きてまず確認するのは、メールでもSNSでもなく、登記関連の案件。事務員の子が出勤してくる前に、案件の進捗と法務局の予約確認をしておく。人生がどんどん私生活中心になっていく友人たちとは違い、僕の生活は仕事が中心。誇れることのはずなのに、なぜか最近は重たく感じてしまう。

法務局の待ち時間と、無機質な窓口

法務局は、毎日のように通う場所だ。番号札を取って、無機質な空間でじっと順番を待つ時間。窓口の人と交わす会話も、最低限の確認と事務処理だけ。以前はこの時間さえ「業務の一部」として割り切れていたけれど、最近は「自分は一体、何をしているんだろう」と考えてしまう瞬間が増えた。

若い夫婦連れの来庁者とすれ違って

たまに、住宅登記か何かで来ている若い夫婦とすれ違う。奥さんが「ここでいいのかな?」と旦那さんに聞く様子に、どこか眩しさを感じる。二人で築こうとしている生活の始まりに立ち会っているのに、どこか部外者のような感覚になる。書類を抱えて、黙ってエレベーターを待つ自分。何が違ったんだろう。

予定表に並ぶ「登記」「登記」「登記」

Googleカレンダーを開けば、「登記」「決済」「相談」「登記」と、びっしり詰まったスケジュール。充実していると言えば聞こえはいいが、隙間がなさすぎて息苦しい。昔は「忙しい=充実」と思っていたけれど、今はむしろ「余白のない日常」に疲弊している自分がいる。誰かと食事に行く時間すら、スケジュールに入れなければ実現しない。

この仕事が好きだったはずなのに

司法書士という職業を誇りに思っていた。誰かの大切な手続きを代行し、信頼されることにやりがいを感じていた。でも最近、その気持ちが揺らいでいる。朝から晩まで書類を作成しても、達成感より「また明日もこれか」という疲労感の方が勝ってしまう。自分の中で何かがすり減っている気がする。

書類を前に手が止まることが増えた

以前なら集中して一気に処理できていたはずの書類作成作業が、どうにも進まない。数行書いては手が止まり、ふと窓の外を見てしまう。書類の山は減らないのに、集中力はどんどん削がれていく。まるで歯車が少しずつ噛み合わなくなってきているような感覚に、不安を感じずにはいられない。

やる気が出ない、でも締切は来る

「今日はちょっとだけ休もう」と思っても、締切は待ってくれない。お客さんからの電話、銀行とのやりとり、登記情報の照会…何もかもが「止まってはいけない」と急かしてくる。仕事に押し流されるように毎日が過ぎていき、自分の感情を見失いそうになることがある。

「ちゃんとしなきゃ」と言い聞かせる毎日

そんな日々の中で、最後に自分を奮い立たせるのは「ちゃんとしなきゃ」という思い。自分が崩れたら、事務員の子も、依頼者も困る。誰も責めていないのに、勝手に背負って、勝手に責任を感じて、そしてまた一人で抱え込んでしまう。たぶんそれが、この仕事の性質でもあるのだろう。

誰のために、何のためにやってるんだろう

ふとした瞬間に、自問自答する。「誰のために」「何のために」僕は働いているのか。生活のため、信用のため、依頼者のため…答えはいくつもあるけれど、本当のところ、自分のために何かをしている実感が少ない。だからこそ、心が置き去りになる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。