優しさでは割り切れない現実
司法書士という仕事は、誰かを助けるために存在するはずなのに、結果として誰かを傷つけてしまうことがある。それが一番つらい。相続の場面でも、登記の名義をめぐって家族が言い争いになったりする。自分は中立の立場で手続きをするだけ。でも、その書類一枚が、家族の関係を決定づけてしまうことがある。誰も悪くない。ただ制度がそうなっているだけ。でも、泣きながら判を押す人を目の前にして、「これでいいんですよ」なんて、とても言えない。
「やってあげたい」と「やらなきゃいけない」の間
依頼者の話を聞いていると、「なんとかしてあげたい」という気持ちになる。けれど、法律は感情を汲んではくれない。やってあげたくても、できないことの方が多い。たとえば、遺産分割で揉めている兄弟。どちらの言い分もわかるし、間に入りたくなる。でも、自分がそこに首を突っ込んだ瞬間、第三者性を失ってしまう。仕事としてやらなければならない線と、人として手を差し伸べたくなる気持ちの狭間で、いつも自分を引き裂かれるような思いがする。
依頼者の気持ちに寄り添いすぎるリスク
優しさを武器にするのは、実はとても危うい。寄り添いすぎると、自分が感情に巻き込まれてしまうからだ。あるとき、成年後見の案件で、施設に入っている高齢者の娘さんが泣きながら相談に来た。「母がこんなふうになるなんて思わなかった」と。話を聞いているうちに、こちらまで涙が出そうになった。でも、そのあとにやるのは、資産の調査と報告書の作成。情は入れすぎてもいけないし、入れなさすぎても冷たいと言われる。どちらにしても、誰かが傷つく構造になっている。
感情移入しすぎて自分が削れていく
ある意味、この仕事は感情の消耗戦だ。相手の感情を受け止めるほど、自分の中の何かが削られていく。昔は「大丈夫です、任せてください」なんてよく言っていた。でも、今はもうその言葉が出てこない。言った瞬間、自分が背負ってしまうとわかっているからだ。自分が壊れてまで、誰かを助けるべきなのか。その問いに、まだ答えは出せていない。
距離を取ると「冷たい」と言われる苦しさ
感情的に距離を置こうとすると、「なんか冷たいですね」と言われることもある。そう言われた瞬間、胸がズキッとする。でも、その冷たさは、自分を守るための最低限のバリアなんだ。かつて、寄り添いすぎて精神的に参ったことがあった。そのときに「自分が倒れたら、誰も守れない」と気づいた。だから今は、必要以上に感情を入れないようにしている。それでも、うしろめたさは残る。やっぱり、自分が不器用なんだろうか。
人として、じゃなくて職業として向き合う難しさ
司法書士というのは、人の人生に関わる場面に立ち会う仕事だ。だからこそ、「人としてどうか」という視点を捨てきれない。でも、職業人としての線引きもしなければならない。その間で迷い、揺れる。たとえば相続放棄の相談。親の借金が理由で放棄する決断をした依頼者が、最後に「親不孝ですかね」と聞いてきたとき、なんて返すのが正解だったんだろう。職業としては「手続き的には問題ありません」と言えばいい。でも、それだけで良かったのか、今も考えてしまう。
感謝されないときに心が折れる
誰もが感謝を求めて仕事しているわけじゃない。でも、まったく感謝されないことが続くと、やっぱり心は折れる。特に、誰かのために動いた結果、それが当たり前とされると虚しさが残る。「ありがとう」がないと生きていけないわけじゃない。でも、たった一言あるだけで、次の日の自分を支える力になるのも確かだ。
成果が見えにくい「裏方の仕事」
司法書士の仕事は、目立たない。表に出るのは不動産の名義変更や、会社の登記、相続手続き。でも、その裏でどれだけの書類を準備し、どれだけの電話をし、確認作業をしているかは、ほとんど知られていない。しかも、ミスがあったら大問題になるのに、ミスがなければ誰も気づかない。裏方仕事の典型だ。目に見えない努力は、往々にして評価されない。そのことが、じわじわと心にきいてくる。
誰のためにやっているのか見失う瞬間
ときどき、ふと「自分は誰のために仕事をしているんだろう」と思うことがある。依頼者のため? 法律のため? 生活のため? 答えは一つじゃないはずなのに、どれもいまいちピンとこない。仕事をしていて、「これは意味があるんだ」と実感できる瞬間が少ない。毎日がルーチンになってしまうと、感情が麻痺してくる。そういう時は、事務所の机に座っていても、どこか遠くにいるような気がしてしまう。
書類が通っても誰にも褒められない
役所から「登記完了」の通知が来ても、心が動かなくなっている自分がいる。昔は達成感があったのに、今はただの通過点になってしまった。依頼者に完了報告をしても、「あ、そうですか」で終わることも多い。自分がやったことが、誰の記憶にも残らないことって、こんなに虚しいんだなと実感する。別に褒めてほしいわけじゃない。でも、ちょっとだけでも「助かりました」と言われたら、それだけで違うのに。
それでもこの仕事を続ける理由
こんなふうにグチグチ言いながらも、結局続けているのは、自分の中でどこかにこの仕事の意味を信じているからかもしれない。目立たなくても、報われなくても、誰かがこの役目を担わなければならない。その「誰か」に、自分がなっている。いや、なってしまっている。それが誇らしいとは言えない。でも、少なくとも、今の自分にはこの仕事しかないし、少なくともやるべきことはやっている。それでいい、と思いたい。
「ありがとう」に救われる瞬間もある
ときどき、本当にときどきだけど、「あなたに頼んで良かった」と言ってもらえることがある。その一言が、何ヶ月分もの疲れを一瞬で吹き飛ばす力を持っている。そういう瞬間のために、たぶん続けているんだと思う。報われない日が9割でも、残り1割の「ありがとう」が、全部を意味あるものにしてくれるから。
誰かの区切りに立ち会う意味
登記や相続、成年後見。どれも人生の節目に関わる仕事だ。その「区切り」の場面で、自分が立ち会っているという実感はある。その節目にいることで、誰かの人生に少しでも寄与しているなら、それだけで充分なのかもしれない。もしかすると「誰かが傷つく」構造そのものは変えられない。でも、せめて「少しでも和らげる」存在にはなれるかもしれない。そう思えるだけで、今日もまた机に向かう理由になる。