誰とも話さない一日が、当たり前になっていた
司法書士という仕事をしていると、「話す仕事」と思われがちだ。でも実際はどうだろう。依頼者とは電話やメールでのやりとりがほとんどで、顔を合わせるのはせいぜい初回か、登記が完了したときくらい。普段の業務はPCに向かい、法務局のシステムと格闘し、証明書を印刷してホチキスで止めるだけの毎日だ。気づけば、今日一日、誰とも会話していない。朝から晩まで黙って仕事をして、唯一音を発するのはプリンターのウィーンという音だけ。そんな日が続くと、自分が機械の一部になったような感覚すら覚える。
会話の相手は、エラー音と紙詰まり
「カタカタ…ウィーン…ガッガッガッ」――これが僕の一日のBGM。プリンターのエラー音が鳴ると、「またか」と口に出してしまう。まるで会話をしているかのように「どうした?詰まったか?」なんて声をかけている。実際、声を出すのはこういうときだけだ。人と話すより、プリンターに「お願いだから動いてくれ」と言っている時間のほうが長い。たかが印刷機。でもこの機械が動かないと、僕の仕事はすべて止まる。それがまた切ない。人じゃない存在に、こんなに気を使っている自分が、時々すごく惨めに感じる。
プリンターの「うんともすんとも言わない時間」が一番長い
紙を差し替え、インク残量を確認し、あとは待つだけ。そんな静まり返った時間、部屋には自分の呼吸音と時計の秒針の音しか響かない。プリンターが反応しない数分間は、なぜか異様に長く感じられる。昔、家族と暮らしていた頃は、こんな静寂はなかった。ラジオの音や家族の声が、当たり前のようにあった。今はその代わりに、機械の応答を待っている。うんともすんとも言わないプリンターに、「俺の人生も、こんな感じだな」と思うことがある。
紙切れよりも、人との会話が切れている
紙がなくなると気づくのに、人とのつながりがなくなっていることには、意外と鈍感になる。先日、久しぶりに旧友から電話があったとき、言葉がスムーズに出てこなかった。敬語と業務用語しか出てこない自分に、ショックを受けた。このままでは、本当に「人と会話する筋力」みたいなものが衰えていく。プリンターに「印刷できません」と言われるよりも、自分が人間らしさを失っていると感じた瞬間の方が、よっぽどエラーだ。
事務員さんがいる日と、いない日の静寂の落差
うちの事務所には事務員さんが一人いて、週に数日だけ出勤してくれる。その日は本当に救われる。朝の「おはようございます」があるだけで、事務所の空気が違う。あの一言が、部屋の湿度すら変えるんじゃないかと思うほどだ。逆に、いない日は本当に何も音がしない。電話すら鳴らない日もある。そんな日には、わざと独り言を言ってみたりする。「今日は書類が多いな」とか、「この字、ひどいな」とか。誰も聞いてないけど、自分の声を確認していたいのかもしれない。
「おはようございます」が嬉しくて、泣きそうになる
これは冗談でもなんでもなく、本当にそう思う。たった一言が、心にしみる。相手は何気なく言っているのだろうが、こちらにとってはそれが一日の始まりを支えてくれる命綱のようなものだ。人間はやっぱり誰かと言葉を交わして生きる生き物なのだと、痛感する。事務員さんが休みの日に感じる空虚さは、どんな書類よりも重たい。
たまに話しかけられると、声が裏返る
久しぶりに知り合いの登記相談を受けて、対面で話をしたとき、自分の声が変に高くなっていることに気づいた。日常的に誰とも話していないから、声の出し方を忘れているのだ。接客業だったら致命的な話だが、司法書士の場合はそれでもなんとか仕事は進む。だけど、自分の中の「社会性」がどんどん錆びついていく感覚が怖くなる。せめて声だけでも、まともに出したい。
仕事のやりとりは、無機質な画面越しだけ
司法書士の仕事は、ほとんどがオンライン化されつつある。法務局へのオンライン申請、登記情報の取得、書類の共有もクラウド。すべてが便利になった分、人との接点はどんどん減っていった。最初は効率化だと喜んでいたけど、いまはその便利さが孤独を生み出している気がしてならない。誰かと話す必要がない、という状況は、誰とも話せなくなる、という未来につながっているのかもしれない。
電話よりメール、メールよりチャット
コミュニケーションのハードルはどんどん下がっているはずなのに、人と心を通わせる機会は確実に減っている。電話で一言話すよりも、チャットでスタンプ一つ送れば済んでしまう。自分もその便利さに慣れてしまって、「声をかける」ということの価値を忘れかけていた。だけど、プリンターの「ピーッ」というエラー音が、逆に人間らしさを感じさせてくれるのは皮肉だ。
「プリンターが故障しました」が唯一の雑談ネタ
事務員さんとの数少ない会話の内容といえば、「今日プリンター、また詰まりましたよ」とかそんなことだ。それでも、その話があるだけで救われる。人間と機械のあいだにある問題が、唯一の「共通の話題」になっているという事実には苦笑するけれど、それでも、会話があることに感謝したくなる。大事なのは内容ではなく、誰かと言葉を交わせることなのだと、ようやく気づいた。
話さないことに慣れると、話すのが怖くなる
沈黙に慣れてしまった生活は、ある意味で楽でもある。でも、その「楽」は危ういものだ。自分から話しかけることに勇気が必要になるし、誰かと向き合うことが面倒になる。そうして、話すこと自体が「イベント」になってしまう。たかが会話、されど会話。言葉を交わすだけで、こんなに気力が要るようになるとは思わなかった。孤独はゆっくりと忍び寄り、静かに生活を侵食していく。
沈黙に包まれたまま一日が終わる
「今日も誰とも話さなかったな」と思いながら玄関の鍵を閉めるとき、少しだけ胸が締め付けられる。仕事はきちんと終えた。手続きもミスなく済んだ。でも、人としての自分は今日、どこにいたのだろうか。そんな疑問が、時々浮かぶ。そして、誰に言うでもない「おつかれさま」をプリンターにだけ呟いて、照明を落とす。それが、僕の一日だ。
たまの飲み会がうまくしゃべれなくて辛い
たまに誘われる飲み会に顔を出しても、話すのがうまくいかない。話題に入れないとか、気の利いた返しができないとか、そういう技術的な問題じゃない。根本的に「人と話す感覚」を忘れてしまっているのだ。気まずい沈黙を埋めようとして、余計なことを言ってしまったり、焦って笑ったり。飲み会に行って孤独を感じて帰ってくる――そんな情けない夜もある。
司法書士って、孤独を選んだ仕事なのか?
気づけば、司法書士という職業は「人と関わることを避けたい人」に向いているのかもしれない。黙々と作業をするのが苦じゃない、むしろ好き。そんな人がこの仕事に多い気がする。自分もそのひとりだと思う。だけど、どこかで「人とつながりたい」と思っている自分も確かにいる。その矛盾に苦しみながら、それでも毎日、またプリンターに話しかけてしまうのだ。
依頼者と話すのに、心は閉じたまま
依頼者と会話はする。説明もするし、笑顔も見せる。でも、それは仕事用の自分だ。本当の自分をさらけ出すことはない。いつしか「役割」として話している自分が当たり前になり、心の声は奥にしまわれてしまった。そうして、自分の本音がどんどんわからなくなっていく。無機質なやりとりに慣れてしまったことで、自分という人間も、どこか無機質になってしまった気がする。
でも、どこかで話したいと思っている
それでもやっぱり、人と話したいと思っている。プリンターじゃなくて、生身の誰かと。雑談でも、愚痴でも、どうでもいい会話でも構わない。ただ、誰かに「今日さあ」と言える日が、週に一度でもあるだけで、きっと救われる。だから、今この記事を書いている。誰かとつながりたくて、誰かに届くことを願って。今日もまた、プリンターだけが話し相手の一日だったけど、明日は少し声を出してみようと思う。