寝ても寝ても疲れが取れない…それ、体のサインかもしれません

寝ても寝ても疲れが取れない…それ、体のサインかもしれません

寝ても寝ても疲れが取れない…それ、体のサインかもしれません

朝起きた瞬間から疲れているという絶望

目が覚めるとまず思う。「ああ、今日も始まってしまった」と。特に冬の朝なんて最悪だ。布団の温もりにしがみつきたいけれど、現実は容赦なく始まる。寝たはずなのに、体の芯に鉛でも入っているかのような重さが残っている。私は地方の司法書士事務所を一人で運営していて、事務員さんが1人いるだけ。自分が動かなければ回らないこの仕事に、心身ともに疲弊している。毎朝、「今日こそ休もうかな」と考えるが、結局立ち上がる。責任がそうさせてくる。でもその繰り返しが、確実に自分を壊している気がするのだ。

目覚ましが鳴る前に、もう気力が尽きている

以前は目覚ましが鳴るまでぐっすり眠れていた。しかし今は、アラームが鳴る15分前に目が覚めてしまう。その瞬間、心のどこかで「また今日もやることが山積みだ」と焦燥感が走る。仕事のスケジュール、クライアントとの連絡、登記の確認作業……これらが朝から脳内にずらりと並ぶ。結局、起きる前から気力が削がれているのだ。まるで寝ている間も働き続けているかのような感覚で、脳が常にONになっている。この生活を続けていたら、そりゃあ疲れも取れないわけだ。

「寝たはずなのに」何もリセットされていない現実

以前、ある休日に10時間寝たことがあった。目が覚めたとき、「これでようやくリフレッシュできた」と思った。でも数分後には、目の奥の重さと首のだるさに気づき、ガッカリした記憶がある。リセットされるどころか、むしろ体が重い。そのとき初めて、「これはただの疲労じゃないかもしれない」と思った。睡眠という一番の回復手段が効かないと気づいたとき、真綿で首を締められているような気分になった。

疲れの原因は「量」ではなく「質」かもしれない

司法書士の仕事は一見すると地味で静かに思われがちだが、実際は神経をすり減らす連続だ。お客様の人生の節目に関わる書類を扱い、ミスは許されない。作業量は確かに多いが、問題は「質」だと感じている。細かいミスも許されない緊張感、言葉を選び続ける対話、短時間での判断……。これらが積み重なると、量以上に心身に負荷がかかってくる。そしてその負荷は、睡眠ごときでは簡単に解消できない。

仕事はこなしてる。だけど身体は壊れていく

忙しくても、納期には間に合わせるし、お客様にも誠実に対応しているつもりだ。でもある日、駅の階段を上っただけで息が切れ、足が震えた。風邪でもない、熱もない。ただただ体力が削れている。40代になってからというもの、仕事は回せても身体のダメージが確実に蓄積されているのを感じる。頑張れば頑張るほど「壊れる方向」に向かっているような気がしてならない。

効率化すればするほど、心がすり減る paradox

時間の使い方を工夫して、作業効率を上げれば楽になると思っていた。でも実際は逆だった。効率が上がると、こなせる量も増えてしまい、結局仕事が減らない。空いた時間は「余裕」ではなく「さらに押し込まれる余地」になる。この矛盾が、精神的な疲労をじわじわと増やしていくのだ。しかも、頑張っている分だけ、自分で自分に「もっとやれるはず」とプレッシャーをかけてしまう。

「頑張り方」を間違えていたと気づくのはいつも後

無理をしている自覚はない。なぜなら、真面目にやっているだけだから。でもある日、同業者との雑談の中で「最近疲れが取れなくて」と話すと、「そんなに一人で背負いすぎちゃダメだよ」と言われた。はっとした。頑張ることが美徳だと思っていたし、それが当たり前のように思っていたけれど、もしかしたら“頑張り方”そのものを間違えていたのかもしれない。

司法書士という職業の“目に見えない重圧”

登記一つとっても、間違えば取り返しのつかないことになる。そうした「表には見えないプレッシャー」が司法書士の仕事には常にある。お客様には見せられないが、常に冷や汗をかきながら書類をチェックしている。誰も褒めてくれないが、誰も責任を取ってくれない世界。その緊張感が、疲労の正体なのだと最近ようやく気づいた。

書類だけじゃない、依頼者の人生も背負ってる

たとえば、相続登記一つでも、そこには故人を偲ぶ想いがあり、相続人の複雑な人間関係がある。その書類を通して、家族の歴史や葛藤が伝わってくる。依頼は“事務的”でも、実際に関わっているのは人の感情だ。そう思うと、気が抜けないし、ミスも許されない。単なる書類処理ではなく、人生の転機に立ち会う仕事。そりゃあ疲れるわけだ。

責任感が抜けず、寝ても仕事の夢を見る

最近、夢の中でも登記簿を開いている。顧客の名前を間違えていないか、押印漏れはないか、そんなことを夢の中でも確認している。朝起きたときには、仕事を2時間分やったかのような疲れがある。こうなってくると、もはや「休んでいる」感覚がない。身体は横たわっていても、心はずっと働いている。

「ちゃんとしてるね」と言われる裏側の苦悩

たまに言われる「いつもちゃんとしてるね」という言葉。その裏には、自分がどれだけ無理して整えているか、誰も気づかない。完璧に見える書類の裏には、何度も確認し、ミスを恐れて何度も書き直した影がある。それでも表に出すときは“ミスのない作品”として見られる。それが司法書士の仕事だ。人に見せる顔と、自分の疲労のギャップが、なんとも言えない虚しさを生む。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

優しさが足りなかったかもしれない件

優しさが足りなかったかもしれない件

ふと振り返ったあの日の一言

最近、何気ないやり取りの中で、ふと昔の出来事を思い出した。あの時、事務員の彼女が少しだけ困った顔をしたのを、僕は見過ごしてしまったのかもしれない。いや、見ていたのに、見なかったことにしたんだろう。自分の仕事のことで頭がいっぱいだったから。「そんなの当たり前でしょ」っていう、つい口から出てしまった一言が、彼女の心をどれだけ冷やしたか、今になって思い知らされている。

忙しさに紛れていた無意識の態度

毎日、登記の書類、電話対応、役所回り…慌ただしい日々が続く中で、自分の態度がどうだったかなんて省みる余裕もなかった。いや、正確に言えば「余裕がない」という言い訳で、気遣いを放棄していた。たとえば、彼女が何か確認したいことがあって声をかけてきたとき、「今、それどころじゃない」と返したことが何度もある。別に怒鳴ったわけじゃない。でも、その一言が毎日積もれば、だんだんと無言の圧力になる。

「そんなの当たり前だろ」と言ってしまった自分

あの日の会話はよく覚えている。簡単な不動産登記の住所表記を間違えた彼女に対して、僕は「こんなの基本中の基本だろ」と言ってしまった。確かに内容としてはそうかもしれない。けれど、初めての作業だったことも、前日に僕が説明を省いたことも、あとから思えば要因だった。冷静に話せばよかったのに、その時の僕は、「またやり直しか…」という苛立ちでいっぱいだった。自分の都合で怒りの感情をぶつけただけだった。

本当はただ余裕がなかっただけなのに

怒っていたように見えたかもしれないが、実際は焦っていた。仕事が立て込み、納期が迫っていたこともあり、自分の中にある「ミスをしたくない」というプレッシャーに押し潰されそうになっていた。それをそのままぶつけた結果、彼女に「怒られた」「責められた」と思わせてしまった。僕は「ただ忙しかっただけ」と思っていたが、相手にとってはそうではなかった。優しさって、結局“相手の受け取り方”で決まるのだと思い知らされた。

気づいた時には関係が変わっていた

しばらくして、彼女の表情に違和感を覚えるようになった。目を合わせなくなり、報告も簡潔になっていった。「あれ?」とは思ったが、そのときは深く考えなかった。今思えば、あれは警告だったのだと思う。僕の態度に、少しずつ距離をとるようになったのだろう。それでも僕は、まだ「忙しいから仕方ない」と自分を正当化していた。今ならわかる。忙しいときこそ、優しさを忘れてはいけなかったのだと。

事務員の表情が少しずつ変わっていった

ある日、彼女が提出した書類に小さなミスがあった。以前ならその場で相談してくれていたのに、そのときは何も言わず、提出後にこっそり訂正しようとしていた。それを見た瞬間、「あ、信頼が薄れてるな」と気づいた。僕は彼女に「なんで相談しなかったの?」と聞いたが、「忙しそうだったので…」と静かに返されて、言葉を失った。彼女の目は、以前のように輝いていなかった。

信頼よりも緊張感が先に立つ空気

職場に必要なのは、ピリピリした緊張感じゃない。一定の張り詰めた空気は仕事に集中するためには必要かもしれないが、それが常態化してしまうと、人は息が詰まってしまう。信頼関係のうえにこそ、業務の正確さも効率も成り立つ。けれど、僕の言動は、彼女にとって「怒られないように動く」ことを優先させてしまったのだと思う。それは、チームとしては最悪の状態だった。

優しさとは何かを考えさせられた瞬間

何気ない一言が、後々まで尾を引くことがある。僕は「そんなつもりじゃなかった」で済ませてきたけれど、相手にとってはその一言で、その日の気分も仕事への向き合い方も変わってしまうことがある。優しさって、意識していないとすぐに手放してしまうものだ。ふとした会話の中で、相手がどんな気持ちでそれを聞いているのか、そこにまで思いを馳せること。それが、僕にとっての今の課題かもしれない。

叱ることと怒ることの違いを忘れていた

「これは違う」と伝えることは大切だ。でも、「なんでこんなこともできないの?」という態度で接すれば、それは怒りでしかない。僕は叱るつもりでいたのかもしれないが、実際は怒っていたのだと思う。自分のストレスをぶつけるだけの、ただの感情のはけ口。そうなると、相手には何も残らない。ただ、自己肯定感が傷つくだけだ。教えることと怒ることはまったく違う。その基本を、僕はすっかり忘れていた。

伝えるべきことが伝わらない苦しさ

自分の中では「こうしてほしい」という意図があった。でも、その言い方がきつくなると、受け手は委縮してしまい、真意が伝わらない。言葉の選び方ひとつで、相手の受け取り方は180度変わる。特に職場では、関係性が変わるとコミュニケーションの質にも影響が出る。指摘しても伝わらないことが増えてきて、「なんでわかってくれないんだ」とまた苛立ち…。でも、結局は僕の伝え方に問題があったんだと、今は思う。

自分の言葉で人を追い詰めていなかったか

ある日、彼女がぽつりと「すみません、私には向いてないかもしれません」とつぶやいた。衝撃だった。ああ、ここまで追い詰めていたんだ、と。それは彼女の問題じゃない。僕のせいだ。もっと言葉を選んでいれば、もっと余裕を持って接していれば、そんな言葉を言わせることはなかったかもしれない。仕事ができる・できない以前に、人として、相手を追い込むような言い方をしてしまった自分を深く反省した。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。