一日の業務が終わっても、気持ちが休まらない
書類も提出したし、依頼者にも連絡した。パソコンもシャットダウンした。時計を見れば、もう夜の9時。これで仕事は終わったはずなのに、なぜか心がザワザワしている。やるべきことは終えたはずなのに、「何か忘れていないか」「あれで本当に良かったのか」と不安が残る。仕事が終わることと、心が切り替わることは、どうやら別の話らしい。結局、気持ちは終業の鐘を鳴らしてくれないまま、ただ時間だけが進んでいく。
書類は片付いたのに頭の中はまだ現場
机の上は片付き、書類はファイルに収まっている。だけど頭の中では、今日対応した依頼者の声や表情がまだぐるぐると回っている。たとえば、登記の手続きが無事終わったはずなのに、「あの言い方で誤解を生んでないだろうか」とか、「もっと丁寧に説明すべきだったんじゃないか」といった後悔が沸いてくる。事務所の鍵を閉めたあとも、心だけが置き去りになっている感覚。自宅に戻っても気が休まらないのは、仕事の一部がまだ終わっていないからかもしれない。
「あれで良かったのか」が夜になって押し寄せる
昼間は忙しさに流されていた思考が、夜になると一気に襲ってくる。「あれで良かったのか」と不安になるのは、だいたい風呂上がりや布団に入った瞬間。ふとした拍子に、依頼者のちょっとした表情や一言を思い出してしまい、「自分はちゃんと向き合えていたか」と自問自答が始まる。結論は出ない。けれど、そのモヤモヤは翌日まで引きずる。これはたぶん、真面目にやろうとしている人ほど陥りやすい“感情の残業”なんだと思う。
ベッドに入っても目を閉じられない
疲れているのに、眠れない夜がある。布団に入っても、思考がグルグルと止まらない。目を閉じようとしても、今日の出来事や、これからの心配が頭の中をぐるぐるしていて、まるで永遠に終わらない会議に出席しているような気分になる。朝から晩まで働いて、「お疲れさまでした」と自分に言いたいのに、気持ちがそれを受け取ってくれない。身体は寝たがっているのに、心が「まだ仕事中だ」と主張してくる。それがいちばんしんどい。
オンとオフの切り替えがうまくできない
ひとり事務所で仕事をしていると、オンとオフの境目が曖昧になっていく。勤務時間も曖昧だし、土日も「緊急連絡が来るかも」と思えば気が抜けない。だから、仕事が終わっているはずの時間にも、頭のどこかが常に“スタンバイ状態”になっている。気づけば、プライベートな時間でも業務のことを考えてしまう癖がついてしまった。オフのつもりでいても、実際には仕事モードのまま。それが、心を置き去りにする一因なのだろう。
仕事と生活が地続きのひとり事務所
家と職場の距離が近いというのは便利だけど、精神的にはしんどい。仕事のスイッチを切るきっかけがなくて、いつまでも「今からでも戻れば作業できるな」なんて考えてしまう。結局、夜にふと思い出しては、パソコンを開き、メールをチェックしてしまう。こうして、プライベートと仕事の境界線が溶けていき、何が「休み」なのかわからなくなっていく。何気なく流していたこの生活スタイルが、じわじわと心を圧迫している。
「帰宅」と言ってもそのまま机に向かう毎日
帰宅と言っても、自宅の机の上には未処理の書類が残っていたりする。夕飯を済ませた後、つい「あと1件だけ」とメールに返信してしまう。そのまま気づけば2時間経過。結局、「今日も自分の時間はなかったな」と感じる。誰も強制していないのに、自分で自分を仕事に縛りつけているようなものだ。休むべきタイミングで、なぜか手を動かしてしまう。心が追いつかないのではなく、自分が心を追い越して走ってしまっているのかもしれない。
感情だけが仕事の後を引きずっていく
司法書士という職業は、手続きの正確さだけでなく、人との距離感や感情のやり取りも大切にされる場面が多い。だからこそ、仕事が終わっても「感情」が残る。自分がどう感じたかより、相手がどう感じたかのほうが気になってしまう。そしてその感情が、自分の中でゆっくりと消化されずに残り続ける。結果として、心が落ち着かない夜を生み出してしまうのだ。
依頼者の顔や声がふとよみがえる
一日を終えてホッとしたはずの時間に、ふと依頼者の顔や声が頭に浮かんでくる。笑顔だった人、涙ぐんでいた人、怒りをにじませていた人。そのすべてが脳裏に焼きついて離れない。すべての人に満足してもらえるわけではない。けれど、「もっとできたんじゃないか」と考えてしまうのは、自分の性格なのだろう。仕事として割り切れれば楽なのに、どうしても人の感情が自分に重なってしまう。
もらった「ありがとう」も、もらえなかった言葉も
「ありがとう」と言ってもらえると嬉しい。でも、なぜかそれが心に残りにくくて、逆に無言で去られたときの不安のほうが長く残ってしまう。「自分の対応がまずかったのか」「もっと丁寧にすべきだったか」そんな反省が、もらえなかった言葉を膨らませていく。自分でもネガティブすぎるとは思うけど、人と関わる仕事だからこそ、こういう感情が避けられないのだろう。
疲れているのに疲れたと感じられない矛盾
身体は重いのに、「まだ動ける」と思ってしまう。疲労感を感じる前に、「やらなきゃ」が先に立つ。それが日々の習慣になってしまっていて、疲れていることにすら気づけなくなる。たまに一日完全に休みがあっても、何をしたらいいかわからず、逆に不安になる。休むことが怖くなるというのは、きっと心がどこかで無理をしている証拠なのだと思う。
身体よりも心のほうが置き去りにされている
夕方、事務所を閉めたときに「やっと終わった」と感じることはあっても、「やっと落ち着いた」とは思えない。それは、心がまだ仕事に囚われているからだ。疲れは感じているのに、その実感が心まで届いていない。身体は座っているのに、頭の中はずっと走っている。そんな状態が続くと、自分がどこにいるのかもわからなくなる。日々の業務に追われながら、心だけが取り残されていく。
休むことに罪悪感を覚えてしまう
「今日はもう休もう」と思っても、「でもまだこれが…」とつい机に向かってしまう。休むという行為にすら、罪悪感がつきまとう。誰に責められているわけでもないのに、「自分だけ楽をしているのでは」と考えてしまう。仕事に追われているというより、責任感に追い込まれているのかもしれない。もっと自分に優しくしたい。でも、その優しさの出し方が、もうわからなくなっている。
それでもまた明日もやるしかない
心が追いつかなくても、朝はまたやってくる。案件は待ってくれないし、電話も鳴る。疲れていても、気持ちがついてこなくても、とりあえず机に向かうしかない。「なんとかなるだろう」と自分を励ましながら、また一日が始まる。本当はもう少し心の余裕が欲しいけど、それが望めないなら、せめて今日もちゃんとやりきったと自分に言えるように過ごしたい。
どこかで誰かが待っているかもしれないから
ふとした瞬間に、「ああ、辞めたいな」と思うこともある。でも、その一方で「自分を頼ってくれる人がいるかもしれない」と思うことが、足を止めさせてくれる。きれいごとかもしれない。でも、それがないとやっていけないのも事実だ。完璧じゃなくても、心が遅れていても、「今日も自分なりに頑張った」と言える日があるなら、それで十分なのかもしれない。
「追いつかない心」を抱えてでも進む理由
誰かのようにうまくやれないし、常にポジティブでもいられない。でも、それでも前に進もうとするのは、自分にしかできないことがあると信じたいから。心が後ろに残ったままでも、一歩ずつ歩くことで、少しずつその心が追いついてくるかもしれない。そう信じて、今日もまた自分の仕事を続けていく。