誰かのために働いてきたつもりが、気づけば“誰か”に自分がいなかった
「誰かの力になりたい」と思って司法書士になった。それは嘘じゃない。実際、困っている人が目の前にいれば、こちらの都合なんてどうでもよくなる。でも気づいたときには、自分のことを誰も“誰か”にカウントしていなかった。家族もいない、恋人もいない、友人も会う暇がない。気づけば、寄り添っていたつもりが、自分だけ取り残されていた。
「寄り添う仕事」って、聞こえはいいけど現実は泥だらけ
「司法書士って人の人生を支える仕事ですよね」なんて言われることがある。確かにそうだ。相続や登記、借金の整理や成年後見など、どれも誰かの人生に関わる仕事。でも、その「支える側」はどうやって自分を支えているんだろう。テレビドラマのように感動の場面が連続するわけじゃない。現実は、書類に埋もれ、電話に追われ、相手の感情に引きずられながら、時間だけが過ぎていく。
登記の相談も相続の調整も、ぜんぶ“人の事情”ばかり
ある日、相続の相談に来た兄妹が口論を始めた。僕は間に入りながら調整役を務めたけど、あの時間の中で僕の存在は、ただの「潤滑油」だった。人の人生の「事情」に巻き込まれるのがこの仕事。でも、その“事情”に心をすり減らしながら、自分の「事情」は後回しになる。登記だって、誰かの不動産の話。自分の家なんて、築30年のアパート暮らしだ。
「ありがとう」の裏で削られていく自分の気力
「先生、本当に助かりました」そう言われる瞬間は確かに嬉しい。でも、その「ありがとう」の裏で、僕は今日も夕飯をコンビニで済ませている。気力が湧かないから自炊もできないし、食べながら何の味も感じない。誰かに感謝されても、空っぽな自分が戻ってくるだけだ。「ありがとう」は心に染みるはずなのに、いつからか、それすらも疲労の上塗りになってしまっていた。
気づけば、自分の予定より他人の都合が優先されていた
カレンダーを見ると、びっしりと他人の予定が書かれている。自分の通院の予定も、役所に行く時間も、全部後回し。結局、毎日が「誰かのため」で埋まっていく。そして、ふとしたときに思う。俺の人生って、どこにあるんだっけ? 自分の誕生日すら、誰にも祝われない。それどころか、その日も相談予約が入っていた。
“今日ちょっとだけ”が積もって“自分の人生”が消えていく
「先生、今日だけちょっと時間いただけますか?」――この一言が毎日のように来る。1件30分のはずが、気づけば1時間半。自分の昼食を切り上げてまで対応しても、文句は言われるし感謝もない。そういうことが一日に何度も積み重なると、結局自分の時間なんてどこにも残らない。日々の「ちょっとだけ」が、いつの間にか僕の人生を削っていく。
昼飯もゆっくり食べられないのに、みんなは「頼りになるね」
先日、事務員が「先生、今日もお昼抜きですか?」と気遣ってくれたけど、そのときちょっと泣きそうになった。僕自身が自分のことをないがしろにしてるのに、他人の目のほうが優しいんだから笑ってしまう。「頼りになるね」って言葉も、最近は呪いに聞こえてくる。「頼られる=断れない」の図式に、ずっと縛られてる。
定時もなければ、誰も私の「困った」を気にしない
この仕事に「定時」は存在しない。夜10時でも電話が鳴るし、休日に訪ねてくる人もいる。だけど僕が「ちょっと辛い」とこぼしても、誰も気づかない。そもそも、弱音を吐く場所もない。「先生って強いですね」と言われても、実際は強がってるだけ。誰にも相談できずに溜まった「困った」が、今でも机の隅に積もっている。
「優しいですね」って言われるけど、別に報われてません
優しさは美徳だと、昔は思っていた。でも今は少し違う。優しすぎると、境界線があいまいになる。何でも受け入れてしまって、自分のスペースがなくなる。そうして“いい人”の皮をかぶって生きているうちに、自分の本音がどんどん遠のいていった。
頼られるほどに、逃げられない構図ができあがる
「先生じゃなきゃダメなんです」と言われることがある。確かに嬉しいけど、同時にそれは「断れないフラグ」でもある。そうして、またひとつ予定が埋まり、またひとつ、自由が減っていく。頼られることは誇らしい。でも、それが逃げ場をなくす檻になっていることに、ふと気づいてしまう瞬間がある。
強くなったんじゃなくて、折れたくても折れられなかっただけ
「先生はメンタルが強いですよね」と言われる。でも違うんだ。強くなったわけじゃない。ただ、折れることを許されないだけ。家庭もない、職場も自分が中心。倒れたら全部止まってしまう。だから無理やり立ってるだけなんだ。ほんとはずっと、心の中で泣いてる自分を知ってる。
やさしさは武器にもなるけど、防具にはならない
やさしさって、時に誰かを救う武器になる。でも、自分を守る盾にはなってくれない。やさしいからこそ断れず、傷つきやすくなる。防御力ゼロのまま、人の感情に接するから、どんどん擦り切れていく。やさしさを身にまといながら、心はボロボロになっていた。それでも「いい人」でいようとする自分が、少し憎らしい。
寄り添いすぎて壊れる前に――自分を守るという選択肢
たまには、ちゃんと自分のほうを向いてあげたい。他人の人生を支えながら、自分の心は空洞になっていく。寄り添うのは大事。でも、自分に寄り添う時間も必要だ。誰かの支えになるためにも、まずは自分を壊さないことが大切なんだと思う。
“誰かのため”と“自分のため”を同じくらいに考えてもいい
今まで「人のために生きる」が美学だと思っていた。でも、それだけじゃダメだとやっと気づいた。誰かを助ける力を持ち続けるには、自分の心の充電も必要だ。自己犠牲ではなく、自己尊重。少しずつ、自分の人生にも居場所を作っていこうと思う。
司法書士だからって、全部受け止める必要はない
僕らの仕事は「全部受け止める人」じゃない。相談に乗ることと、人生の重荷を背負うことは違う。境界線を引くことは冷たさじゃない。むしろ、そのほうが誠実かもしれない。誰かの人生に寄り添いながらも、自分の命は自分で守る。これからはそんな生き方を目指したい。
「自分を置いていく癖」に、そろそろ気づいてあげよう
自分を置いていく癖は、きっと長年の積み重ねだ。でも、変えようと思えば少しずつ変えられる気もしている。まずは、休日にスマホを見ない時間を作ることから始めてみよう。自分の声に耳を澄ませる時間。それは、これからの自分のための「寄り添い」かもしれない。