誕生日もひとりで過ごすのが当たり前

誕生日もひとりで過ごすのが当たり前

またひとつ年をとった、静かな誕生日

誕生日というものが、いつからこんなにも無味乾燥なものになったのか、自分でも思い出せません。若い頃は、職場の誰かがケーキを買ってきてくれたり、友人が飲みに誘ってくれたりしたものですが、気づけばそんな風景は過去の話。45歳、地方の小さな司法書士事務所を営んでいる今、誕生日はカレンダーの数字でしかありません。誰からも声をかけられることなく、事務所にひとり。せっせと登記申請書を作って、終わればコンビニ弁当。そういうものです、独身男性の誕生日なんて。

「おめでとう」さえも通知の中だけ

最近では、誕生日の「おめでとう」もスマホの通知の中で完結します。LINEでポンと一言、スタンプだけ送られてきたり、Facebookで「お誕生日おめでとう!」のテンプレートメッセージが届くだけ。それだけでもありがたいと思うべきなのかもしれませんが、画面の中にしか存在しない言葉には、体温がないんです。既読スルーされるよりはマシだけれど、誰かと会話するわけでもない、予定が生まれるわけでもない。ひとこと読んで、スマホを机に置いて、深いため息をつくのがここ数年の誕生日のルーティンです。

LINEのスタンプひとつで済まされる温度感

仲のいい友人がいないわけじゃない。でも、たとえば「ウサギがクラッカーを吹いてる」ようなスタンプだけ送られてくると、なんとも言えない虚しさが残ります。きっと相手も忙しいのでしょう、覚えていてくれるだけでも感謝すべきなんでしょう。でも、それだけで済まされるほど、こちらの心は割り切れていません。「今度飲みにでも行こうか」と一言添えてくれるだけで、どれだけ救われるか。それを言えない関係になってしまったのは、結局こちらの責任でもあるのですが。

それでも既読スルーよりはマシなのか

誰からも何も来ない年もありました。そういう年は本当にきつい。スマホを見るのも嫌になって、電源を切ったり、通知をオフにしたりしたこともありました。そんなことをするくらいなら、スタンプだけでも届いたほうがマシなのかもしれません。けれど、どちらにしても、画面の中のやりとりでは心が満たされることはありません。人と人との関係って、もっとあたたかいものだったはずなんですけどね。

SNSの「お祝い投稿」を指くわえて見ている

InstagramやFacebookで流れてくる「誕生日パーティーしました!」の投稿。笑顔の仲間、豪華なケーキ、プレゼントの山。つい、いいねを押してしまうけれど、心の中はざわざわします。「自分には無縁の世界だ」と思いつつも、羨ましさは拭えません。それが嘘や見せかけであったとしても、それを演じる場があるだけで、彼らには居場所があるんだと思ってしまうんです。

ケーキの写真よりも映り込む“人”がつらい

たとえば、ケーキの写真だけなら平気です。でも、そこに一緒に笑っている人たちの姿があると、急に胸がチクリと痛むんです。「誰かと一緒に祝う」という行為そのものが、今の自分には遠すぎる。誰も自分の誕生日を“イベント”として捉えていない。結局、今日もひとりで冷蔵庫のプリンを開けて、テレビを見ながらひっそりと終わっていく。それが現実です。

いつから「ひとり」が当たり前になったのか

この生活が、いつから始まったのかと振り返ると、開業して数年経った頃からかもしれません。最初は「独立したらモテるかも」なんて甘い幻想もありました。でも現実は、日々の業務に追われ、休日も何かと用事が入り、プライベートの優先順位はどんどん下がっていった。そして気づけば、ひとりが普通に、そして常態化していた。誰かに会うという選択肢すら、頭から消えていったのです。

仕事優先、それが生き残る手段だった

地方で個人事務所をやるということは、放っておけば忘れ去られるということでもあります。だからこそ、依頼が来たら断れないし、土日も対応するし、夜でも電話には出るようにしてきました。その姿勢が信頼につながった部分もあるのですが、代わりに失ったものも多かった。たとえば恋愛だったり、友人との関係だったり。結局、目の前の仕事をこなすことが、生き残るための唯一の手段だったのです。

「忙しい」は便利な逃げ道だったのかも

実際には、ちょっと無理をすれば人と会う時間をつくることもできたはずなんです。でも、「忙しいから」が口癖になって、誰かからの誘いも自然と断ってきた。そして、誘われることも減っていき、いつの間にかひとりになった。もしかしたら、「忙しさ」に逃げ込んでいただけかもしれません。寂しさと向き合うのが怖かったから。自分の弱さを見たくなかったから。

それでも明日はやってくる

誕生日がどんなに孤独でも、次の日にはまた業務が待っています。誰かの相続の相談、登記の依頼、裁判所への提出書類の作成。日常が戻ってきます。むしろ、その日常があるから、ひとりの誕生日も乗り越えられているのかもしれません。仕事がなければ、何を支えにして生きているかわからなくなってしまいそうです。

誰かの人生に関わる責任

司法書士という仕事は、他人の人生の節目に立ち会うことの多い仕事です。結婚、相続、会社設立、財産分与…。そのたびに、自分のことは二の次で、相手のことを最優先にして動く。それがプロとしての矜持でもあります。でもふと、自分の人生の節目には、誰が寄り添ってくれるんだろうと考えてしまう。年を重ねるごとに、その問いは重たくなっていきます。

自分の誕生日は、後回し

今日も朝から書類作成、午後には法務局。お祝いのケーキも、自分で買う気になれず、結局そのまま仕事帰りにコンビニでプリンを買っただけでした。だけど、誰かの登記が無事終わって「助かりました」と言われると、それだけで「まあ、今日も悪くはなかったか」と思えるんです。自己犠牲かもしれませんが、それが今の自分の“普通”です。

同じように頑張っている誰かへ

この文章を読んでくれているあなたが、もし同じような気持ちで誕生日を迎えたのなら、少しでも心が軽くなればと思います。司法書士に限らず、誰でも孤独を抱えて生きている。誰かと比べて自分が劣っているように感じる日もある。でも、それでも、こうして生きてるだけで十分なんです。完璧じゃなくても、誰かの役に立っているなら、それだけで価値がある。

「ひとりでも大丈夫」と言える日がくるように

誕生日をひとりで過ごすのが当たり前になってしまったけれど、それでも少しずつ、自分を受け入れられるようになってきました。強がりじゃなく、「まあ、ひとりでも大丈夫か」と思える日が、いつか本当に来たらいいなと思っています。そしてそのときには、同じように悩んでいる誰かにも、そう言ってあげられるようになりたい。誰かの“誕生日の寂しさ”に、そっと寄り添える自分でいたいです。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。