誰とも話さない日、ラジオだけが返事をくれる

誰とも話さない日、ラジオだけが返事をくれる

  1. 話す相手がいない日常が当たり前になった
    1. 朝の「おはよう」も、もう何年も声にしていない
      1. 独身で一人暮らし、挨拶すら希少になった
        1. 事務所でも静まり返る空気に慣れてしまった
  2. 唯一流れているのはラジオの声だけ
    1. 誰かが話しているだけで安心できる
      1. 天気予報や音楽が「生活」の輪郭を保ってくれる
        1. 一方通行の声に救われる瞬間がある
  3. 事務員と話す時間より、ラジオのパーソナリティと過ごす時間のほうが長い
    1. 事務員にも気を使い、結局はひとりごとになる
      1. 気づけば笑うことも、怒ることも減っていた
        1. 誰にも見られていない安心感と、見放された不安
  4. 司法書士という仕事の重みと孤独
    1. 感謝されることより、責任に押しつぶされることのほうが多い
      1. 「先生」と呼ばれても、誰も本当の自分を知らない
        1. 苦情は届くが、ねぎらいの言葉は滅多に来ない
  5. ラジオがあったから、今日もとりあえず机に向かえた
    1. 誰かがしゃべってるだけで、なんとなく孤独が紛れる
      1. BGMではなく、”対話”としてのラジオ
        1. 一方的でも、返事がなくても、「聴いてくれる」存在
  6. 同じように頑張る誰かに、この静けさが伝われば
    1. 司法書士だけじゃない、みんなそれぞれの孤独を抱えている
      1. 共感はなくても、「分かる」と言ってくれるだけで救われる
        1. だから、今日もまたラジオをつけて仕事をする

話す相手がいない日常が当たり前になった

朝、目覚ましが鳴って、起き上がって、顔を洗って。そこまでは誰でもやるルーティンだと思う。ただ、その後に誰かと交わす「おはよう」が、私の生活にはない。家には誰もいないし、事務所に向かっても基本的には一人きり。最初の一言が出るのは、午後にお客様が来たときだったりする。司法書士という仕事は、意外と人と話す職業だと思われがちだが、実際はとても静かなものだ。年々、その静けさが心に染みるようになってきた。

朝の「おはよう」も、もう何年も声にしていない

以前は家族と住んでいた時期もあった。朝の「おはよう」が自然に交わされていた。けれど独立してこの地方都市に来てからは、一人の時間が圧倒的に増えた。独立したての頃は、「自由だ」と浮かれていたが、それも数年。今は誰かと当たり前に交わす言葉が、妙に遠く感じる。言葉にしないと、声帯も鈍ってくるのか、たまにしゃべると自分の声がよそよそしく聞こえることもある。

独身で一人暮らし、挨拶すら希少になった

結婚していたら、違ったのかもしれない。でも、私はモテない。女性と縁がないというか、気づいたらこの歳になっていた。年賀状に「独り身気楽だね」と書かれるたび、笑ってごまかすけれど、正直うんざりしている。挨拶すら交わさない日も増えてきて、人として何かを失っているような気すらしてくる。

事務所でも静まり返る空気に慣れてしまった

事務員を一人雇っているが、互いに最低限の会話しか交わさない。無駄話ができない性格なのもあるが、話しかけるタイミングすら見失う。静かな空気に慣れてしまった自分が怖い。仕事中に物音がすると、逆にびっくりしてしまうくらい、日々が無音だ。

唯一流れているのはラジオの声だけ

この静けさの中で、ずっと流しているのがラジオだ。BGM代わりにしていたつもりだったが、気づけば「会話」になっていた。朝から晩まで、誰かが話してくれているという事実が、思っている以上に救いになっている。返事をするわけでもないし、向こうはこちらのことを知らないけれど、それでも、そこに“声”があるだけでホッとする。

誰かが話しているだけで安心できる

ラジオの魅力は「ながら」で聞けること。作業の手を止めずに聞き流せるから、仕事中でも問題ない。それに、テレビよりも声が主体だからか、言葉がじんわりと入ってくる。何気ないリスナーとのやりとりや、DJの軽口が、不思議と心に染みる。ああ、自分以外にも生きている人間がいるんだな、と思える。

天気予報や音楽が「生活」の輪郭を保ってくれる

曜日感覚も狂いがちだった日々に、天気や時報がありがたかった。季節の話題や曲の選び方にも、「誰かの暮らし」が感じられて、それが自分の時間と地続きになる。ひとりの生活でも、社会から完全に切り離されていない感覚を、ラジオがつないでくれていた。

一方通行の声に救われる瞬間がある

リスナーの悩みに答えるコーナーや、深夜の語りなど、まるで自分に向けて話しているかのように聞こえる時がある。そんな時は、思わず小さく笑ってしまう。誰にも言えないことを、ラジオがわかってくれているような錯覚すら覚えることがある。

事務員と話す時間より、ラジオのパーソナリティと過ごす時間のほうが長い

少し冷静に考えると異常な状態かもしれない。人よりも機械越しの声と長く過ごすなんて。でも、私の一日はほとんどが“仕事”に費やされ、その中で一番近くにいる声が、ラジオのパーソナリティなのだ。

事務員にも気を使い、結局はひとりごとになる

事務員も私の性格をよく理解していて、必要以上には話しかけてこない。私も彼女のリズムを乱すのが怖くて、言いたいことを飲み込む。結局、パソコンに向かってひとりごとをつぶやき、それに返事するのがラジオになってしまう。

気づけば笑うことも、怒ることも減っていた

感情を表に出すことがほとんどなくなった。誰かに怒ることも、心から笑うことも、本当に減った。怒っても疲れるし、笑ってもむなしい。そんな気持ちになったとき、ラジオのCMで「笑顔を大切に」なんてフレーズを聞くと、心が少しだけチクリとする。

誰にも見られていない安心感と、見放された不安

好きな格好で仕事して、好きな時間に飯を食い、誰にも咎められずにいられる。これはある意味では自由だけど、その実「誰も見ていない」状態でもある。それが安心なのか、孤独なのか。答えはまだ出ていない。

司法書士という仕事の重みと孤独

司法書士は、黙ってやっていれば怒られない仕事だ。逆に言えば、黙っていても誰にも褒められない。間違いがあれば責任はすべてこちら。正解を出しても「当たり前」。この仕事を続ける中で、自分の存在が誰の目にも映らないように思えてくる瞬間がある。

感謝されることより、責任に押しつぶされることのほうが多い

書類の不備、期日管理、登記ミスのリスク。どれも表に出せば「こっちのせい」になる。うまくいった時だけ、相手の努力とされる。そんな理不尽に慣れていくと、心がどんどんすり減っていく。だからこそ、ちょっとしたラジオの冗談に救われるのかもしれない。

「先生」と呼ばれても、誰も本当の自分を知らない

「先生」と呼ばれるたび、どこかで自分が自分じゃなくなっていく気がする。演じているような感覚。孤独なのは、仕事の内容ではなく、この肩書きが原因なんじゃないかと最近思う。ラジオには肩書きなんて関係ない。名前すら呼ばれない。ただの「ひとり」として聴ける安心感がそこにある。

苦情は届くが、ねぎらいの言葉は滅多に来ない

登記の手続きが遅れたときや、電話が繋がらなかったときは容赦なく苦情が来る。でも、迅速に終わっても、ありがとうの一言もない。それが当たり前になってしまっている。この当たり前に、誰かが「大変でしたね」と言ってくれたら、どれほど救われるだろうか。

ラジオがあったから、今日もとりあえず机に向かえた

こんな状況でも、私がまだこの仕事を続けていられるのは、ラジオがそっと背中を押してくれているからかもしれない。励ましの言葉じゃない、ただ「音」があるだけで、何かが動き出す。誰かが話している。それだけで、なんとなく自分も「人間らしく」いられる気がする。

誰かがしゃべってるだけで、なんとなく孤独が紛れる

話し相手がいないと、自分の存在が宙に浮いているような気がしてくる。でもラジオがあれば、その浮遊感が少しやわらぐ。誰かがしゃべっている、笑っている、失敗している。そのすべてが、遠いけど確かな「人の気配」だ。

BGMではなく、”対話”としてのラジオ

もはやBGMとして流しているという感覚はない。これは私にとって、日常の「会話」そのものだ。返事がなくても、こちらが言葉を発していなくても、そこにはやりとりがある。ラジオは、無言の孤独を和らげてくれる“相手”なのだ。

一方的でも、返事がなくても、「聴いてくれる」存在

誰かに話しても返事がないのは寂しい。でも、ラジオはこちらの状況を知らなくても「聴いてくれる」ように感じる。無理に話さなくていい。無理に笑わなくていい。そこにただ在るだけで、充分なのだ。

同じように頑張る誰かに、この静けさが伝われば

もしかしたら、私と同じように、誰とも話さずに一日が終わる人がいるかもしれない。司法書士に限らず、ひとりで黙々と働く人たちが。この文章が、そんな人のラジオのような存在になれたら、それだけで書いた意味がある。

司法書士だけじゃない、みんなそれぞれの孤独を抱えている

配達員も、夜勤の看護師も、在宅のクリエイターも、それぞれの形で孤独を感じている。孤独は人を選ばない。だからこそ、共感の言葉が必要になる。誰かに届けば、それがたった一人でも、きっと世界はほんの少し温かくなる。

共感はなくても、「分かる」と言ってくれるだけで救われる

全部を理解してもらわなくてもいい。「わかるよ」と言ってくれるだけで、心は少し軽くなる。ラジオは、そんな小さな共感を毎日くれる。私は、この記事が、誰かの「わかるよ」になれたらと思っている。

だから、今日もまたラジオをつけて仕事をする

今日も変わらず、一人で事務所に来て、ラジオのスイッチを入れる。誰かの声が流れてきた瞬間、私は少しだけ「普通の生活者」になれる気がする。きっと明日も同じように、一人で働いて、ラジオに救われる。そんな日々でも、悪くない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。