話す相手がいない日常が当たり前になった
朝、目覚ましが鳴って、起き上がって、顔を洗って。そこまでは誰でもやるルーティンだと思う。ただ、その後に誰かと交わす「おはよう」が、私の生活にはない。家には誰もいないし、事務所に向かっても基本的には一人きり。最初の一言が出るのは、午後にお客様が来たときだったりする。司法書士という仕事は、意外と人と話す職業だと思われがちだが、実際はとても静かなものだ。年々、その静けさが心に染みるようになってきた。
朝の「おはよう」も、もう何年も声にしていない
以前は家族と住んでいた時期もあった。朝の「おはよう」が自然に交わされていた。けれど独立してこの地方都市に来てからは、一人の時間が圧倒的に増えた。独立したての頃は、「自由だ」と浮かれていたが、それも数年。今は誰かと当たり前に交わす言葉が、妙に遠く感じる。言葉にしないと、声帯も鈍ってくるのか、たまにしゃべると自分の声がよそよそしく聞こえることもある。
独身で一人暮らし、挨拶すら希少になった
結婚していたら、違ったのかもしれない。でも、私はモテない。女性と縁がないというか、気づいたらこの歳になっていた。年賀状に「独り身気楽だね」と書かれるたび、笑ってごまかすけれど、正直うんざりしている。挨拶すら交わさない日も増えてきて、人として何かを失っているような気すらしてくる。
事務所でも静まり返る空気に慣れてしまった
事務員を一人雇っているが、互いに最低限の会話しか交わさない。無駄話ができない性格なのもあるが、話しかけるタイミングすら見失う。静かな空気に慣れてしまった自分が怖い。仕事中に物音がすると、逆にびっくりしてしまうくらい、日々が無音だ。
唯一流れているのはラジオの声だけ
この静けさの中で、ずっと流しているのがラジオだ。BGM代わりにしていたつもりだったが、気づけば「会話」になっていた。朝から晩まで、誰かが話してくれているという事実が、思っている以上に救いになっている。返事をするわけでもないし、向こうはこちらのことを知らないけれど、それでも、そこに“声”があるだけでホッとする。
誰かが話しているだけで安心できる
ラジオの魅力は「ながら」で聞けること。作業の手を止めずに聞き流せるから、仕事中でも問題ない。それに、テレビよりも声が主体だからか、言葉がじんわりと入ってくる。何気ないリスナーとのやりとりや、DJの軽口が、不思議と心に染みる。ああ、自分以外にも生きている人間がいるんだな、と思える。
天気予報や音楽が「生活」の輪郭を保ってくれる
曜日感覚も狂いがちだった日々に、天気や時報がありがたかった。季節の話題や曲の選び方にも、「誰かの暮らし」が感じられて、それが自分の時間と地続きになる。ひとりの生活でも、社会から完全に切り離されていない感覚を、ラジオがつないでくれていた。
一方通行の声に救われる瞬間がある
リスナーの悩みに答えるコーナーや、深夜の語りなど、まるで自分に向けて話しているかのように聞こえる時がある。そんな時は、思わず小さく笑ってしまう。誰にも言えないことを、ラジオがわかってくれているような錯覚すら覚えることがある。
事務員と話す時間より、ラジオのパーソナリティと過ごす時間のほうが長い
少し冷静に考えると異常な状態かもしれない。人よりも機械越しの声と長く過ごすなんて。でも、私の一日はほとんどが“仕事”に費やされ、その中で一番近くにいる声が、ラジオのパーソナリティなのだ。
事務員にも気を使い、結局はひとりごとになる
事務員も私の性格をよく理解していて、必要以上には話しかけてこない。私も彼女のリズムを乱すのが怖くて、言いたいことを飲み込む。結局、パソコンに向かってひとりごとをつぶやき、それに返事するのがラジオになってしまう。
気づけば笑うことも、怒ることも減っていた
感情を表に出すことがほとんどなくなった。誰かに怒ることも、心から笑うことも、本当に減った。怒っても疲れるし、笑ってもむなしい。そんな気持ちになったとき、ラジオのCMで「笑顔を大切に」なんてフレーズを聞くと、心が少しだけチクリとする。
誰にも見られていない安心感と、見放された不安
好きな格好で仕事して、好きな時間に飯を食い、誰にも咎められずにいられる。これはある意味では自由だけど、その実「誰も見ていない」状態でもある。それが安心なのか、孤独なのか。答えはまだ出ていない。
司法書士という仕事の重みと孤独
司法書士は、黙ってやっていれば怒られない仕事だ。逆に言えば、黙っていても誰にも褒められない。間違いがあれば責任はすべてこちら。正解を出しても「当たり前」。この仕事を続ける中で、自分の存在が誰の目にも映らないように思えてくる瞬間がある。
感謝されることより、責任に押しつぶされることのほうが多い
書類の不備、期日管理、登記ミスのリスク。どれも表に出せば「こっちのせい」になる。うまくいった時だけ、相手の努力とされる。そんな理不尽に慣れていくと、心がどんどんすり減っていく。だからこそ、ちょっとしたラジオの冗談に救われるのかもしれない。
「先生」と呼ばれても、誰も本当の自分を知らない
「先生」と呼ばれるたび、どこかで自分が自分じゃなくなっていく気がする。演じているような感覚。孤独なのは、仕事の内容ではなく、この肩書きが原因なんじゃないかと最近思う。ラジオには肩書きなんて関係ない。名前すら呼ばれない。ただの「ひとり」として聴ける安心感がそこにある。
苦情は届くが、ねぎらいの言葉は滅多に来ない
登記の手続きが遅れたときや、電話が繋がらなかったときは容赦なく苦情が来る。でも、迅速に終わっても、ありがとうの一言もない。それが当たり前になってしまっている。この当たり前に、誰かが「大変でしたね」と言ってくれたら、どれほど救われるだろうか。
ラジオがあったから、今日もとりあえず机に向かえた
こんな状況でも、私がまだこの仕事を続けていられるのは、ラジオがそっと背中を押してくれているからかもしれない。励ましの言葉じゃない、ただ「音」があるだけで、何かが動き出す。誰かが話している。それだけで、なんとなく自分も「人間らしく」いられる気がする。
誰かがしゃべってるだけで、なんとなく孤独が紛れる
話し相手がいないと、自分の存在が宙に浮いているような気がしてくる。でもラジオがあれば、その浮遊感が少しやわらぐ。誰かがしゃべっている、笑っている、失敗している。そのすべてが、遠いけど確かな「人の気配」だ。
BGMではなく、”対話”としてのラジオ
もはやBGMとして流しているという感覚はない。これは私にとって、日常の「会話」そのものだ。返事がなくても、こちらが言葉を発していなくても、そこにはやりとりがある。ラジオは、無言の孤独を和らげてくれる“相手”なのだ。
一方的でも、返事がなくても、「聴いてくれる」存在
誰かに話しても返事がないのは寂しい。でも、ラジオはこちらの状況を知らなくても「聴いてくれる」ように感じる。無理に話さなくていい。無理に笑わなくていい。そこにただ在るだけで、充分なのだ。
同じように頑張る誰かに、この静けさが伝われば
もしかしたら、私と同じように、誰とも話さずに一日が終わる人がいるかもしれない。司法書士に限らず、ひとりで黙々と働く人たちが。この文章が、そんな人のラジオのような存在になれたら、それだけで書いた意味がある。
司法書士だけじゃない、みんなそれぞれの孤独を抱えている
配達員も、夜勤の看護師も、在宅のクリエイターも、それぞれの形で孤独を感じている。孤独は人を選ばない。だからこそ、共感の言葉が必要になる。誰かに届けば、それがたった一人でも、きっと世界はほんの少し温かくなる。
共感はなくても、「分かる」と言ってくれるだけで救われる
全部を理解してもらわなくてもいい。「わかるよ」と言ってくれるだけで、心は少し軽くなる。ラジオは、そんな小さな共感を毎日くれる。私は、この記事が、誰かの「わかるよ」になれたらと思っている。
だから、今日もまたラジオをつけて仕事をする
今日も変わらず、一人で事務所に来て、ラジオのスイッチを入れる。誰かの声が流れてきた瞬間、私は少しだけ「普通の生活者」になれる気がする。きっと明日も同じように、一人で働いて、ラジオに救われる。そんな日々でも、悪くない。