「書類をなくしました」──その瞬間に頭が真っ白になる
司法書士という職業柄、書類の扱いには神経を尖らせているつもりだった。だが、ある日「書類が見当たりません」と事務員に言われた瞬間、全身の血が引くような感覚に襲われた。目の前がグラついたような、時間が一瞬だけ止まったような。私はただ黙って立ち尽くし、机の上に視線を落とすしかなかった。書類をなくすというのは、ただのミスではない。信用を削る音が聞こえるようで、思考も行動も止まる。まさに“衝撃”だった。
あったはずの場所にない。ただそれだけで心が崩れる
封筒ごと、あの青いクリアファイルに入れて、左の引き出しにしまったはずだった。そう確信していた。だが、開けても、出てこない。机の上も棚の中も、トイレのドアまで無意味に開けてみたが、当然そこにもない。事務所という小さな空間の中で、突然“行方不明”になる紙一枚の存在感の大きさよ。些細なミスが、まるで人生そのものを否定されるような重さに変わるのだ。
あのときの私の顔、たぶん真顔通り越して無だった
事務員が不安そうな顔でこっちを見ているのも分かっていた。でも、声をかけ返すことすらできなかった。「大丈夫」とか「探せば見つかるよ」とか、そんな言葉が一切浮かばない。おそらくあの時の私の顔は、表情が消えた能面のようだったろう。頭の中では、「どうしよう」「どうしよう」とだけが反復されていた。人は極限の緊張状態では、言葉を失うことを学んだ。
冷蔵庫を開けて閉めるように、机の引き出しを何度も開ける
ないとわかっている場所を、つい開けてしまう。引き出しの中を5回も6回も確認して、結局ないと分かってため息をつく。その姿はまるで、冷蔵庫に何度もお菓子を探しに行く疲れた大人だ。理性では「無意味」と分かっていても、諦めがつかない。紙1枚が生み出すこの滑稽で哀れな儀式に、もう笑うしかなかった。
なぜ、あの書類だけが見つからないのか
ほとんどの書類はいつもと同じ場所にあるのに、どうして肝心なものだけが消えるのだろう。探し疲れた頃にようやく気づく。実は“片付けたつもり”が、“しまいこんでしまった”のだと。つまり、管理が雑だったのだ。忙しさを理由に、後回しにした結果がこれだ。日常の中に潜む油断が、痛烈な一撃となって返ってきた。
整理整頓している“つもり”が一番危ない
「これはあとで処理するから、ここに仮置き」とか、「すぐ必要じゃないから、下段に…」とか、いろいろな“つもり”が重なって、結果として混沌とした山が出来上がっていた。整っているように見えて、その実、ルールが曖昧なままでは意味がない。整理整頓は、定義の共有がなければただの自己満足で終わる。
「後でやろう」が積み重なって地層になる
業務の多さにかまけて、「今やらなくてもいいや」と放置した紙の束が、気づけば年代ごとに層をなしていた。まるで地層のように積もった“未処理書類”は、未来の自分の首を絞める罠になる。そう分かっていても、気づけばまた、「後でやる」と口にしている自分がいる。
日々の業務が積もると、紙の山も感覚も鈍る
目の前の業務を回すことで精一杯になると、優先順位や分類の感覚がだんだん鈍ってくる。気づけば、急ぎの案件と古いコピーが同じ場所に突っ込まれている。書類の山が高くなるほど、自分の判断力も削られていくようで、本当に怖い。
事務員さんに言えなかった「なくした」と言う一言
本当は私がしまい込んで紛失したのかもしれない。でも、最初に気づいたのが事務員だったからこそ、なんとなく言い出しにくい。「私がやりました」と言えれば楽なんだが、どうしても口が重くなる。自分の不甲斐なさと情けなさが混じって、胸のあたりがずっともやもやしていた。
情けないけど、プライドが邪魔をする
私は「所長」だ。一応この小さな事務所の責任者だ。だから、事務員の前でミスを認めるのが、妙に恥ずかしい。情けない話だが、ちっぽけなプライドが邪魔をして、素直に謝れない。こういうとき、自分の未熟さと向き合わされるのがしんどい。
見つけてくれたら…と密かに期待してしまう
何も言わずに探している間、内心では「誰かが奇跡的に見つけてくれないか」と願っていた。自分のミスなのに、他人の発見にすがってしまう。その依存心のような感情がまた自己嫌悪を生む。独りよがりな逃げ方だと分かっていても、つい心がそちらに流れてしまう。
「探してるふり」してる自分に自己嫌悪
書類を探すふりをしながら、実は内心は「もう出てこないだろう」と諦めていた。そういう自分のズルさが嫌になる。とりあえず探してる風を装えば、時間が解決してくれるんじゃないかという甘さ。でも、誰よりも自分がそれを見抜いていた。