無難な会話しかできなくなった自分に気づいた瞬間
ある日ふと、会話の中で自分が「それっぽいこと」ばかり言っていることに気づきました。「そうですね」「大変ですね」「がんばってますね」と、あたりさわりのない言葉でその場をやり過ごす癖。昔のように、心から笑って話したり、思ったことを素直に言ったりすることが減った気がします。きっかけは明確ではないのですが、気づいたときにはもう、心のどこかで他人に興味を持つことや、自分を見せることを恐れていたのかもしれません。
昔はもっと笑って話せていたのに
20代の頃は、話すことに不安なんてありませんでした。趣味のバイクや旅行の話、ちょっとした時事ネタまで、何気ない会話が面白く感じられて、周囲の反応を気にすることもなく、自然と笑いが生まれていたものです。でも今は、自分が話すことで誰かが不快に感じるのではないかとか、「それ、いま言う必要ある?」なんて思われたら…という思考が先に立ってしまって、話し方がどんどん平坦に、慎重になっていく。結果、感情も乗らなくなってしまったんでしょうね。
趣味の話でさえ、言葉を選ぶようになった
昔は誰彼構わず「この前ツーリング行ってさ」なんて話していたのに、今は相手の反応を見てからじゃないと口に出せなくなりました。相手がバイクに興味なさそうだとわかると、「自慢してると思われたら嫌だな」とか「うるさいおじさん扱いされたらどうしよう」とか、余計なことを考えてしまうんです。だからといって、話すことをやめたくはない。でも気軽には話せない。そういうジレンマが日常の中で積もっていきます。
雑談が気まずい、という恐怖
雑談って本来、心をゆるめる時間のはずなのに、今の自分にとっては一種の「試練」になってしまっている。例えばコンビニで常連の店員さんに声をかけられても、「何話せばいいのかわからない…」と戸惑うことが増えました。昔なら何気なく「今日暑いですね」で終わっていた会話も、「この話題、相手はもう100回くらい聞いてるだろうな」などと考えてしまう自分がいる。気まずさを避けようとするほど、会話自体が億劫になる悪循環です。
「波風立てない」が正義になった日常
気づけば、相手の反応を気にしすぎる癖が日常に根を張っていました。とにかく「怒られないように」「嫌われないように」ということばかり考えてしまう。これはたぶん、司法書士という仕事の性質も関係していると思います。何か問題があったら即トラブルに発展するから、言動に慎重になりすぎて、それが普段の会話にも影響しているのかもしれません。穏やかに日々を過ごすために、波風を立てない会話ばかりを選んでしまっているのです。
職場での“空気読み”が癖になってしまった
事務所で働いている事務員さんとのやりとりでも、「疲れてない?」と聞くのにさえ気を使ってしまいます。たとえ本心で「無理しないでね」と思っていても、言葉にする前に「言われた側はどう感じるか」を考えすぎて、最終的に言えずじまい。だから、表面上は円滑だけど、実はすごくストレスが溜まっている。相手もきっと、それを感じているんだろうなと思うと、ますます話すことが怖くなってしまいます。
依頼人との会話も、まるでマニュアル通り
登記や遺言など、司法書士の仕事では依頼人との会話が欠かせません。でも最近は、その会話もどこか「事務的」になっている気がします。「こう聞かれたら、こう答える」というパターンができすぎて、温度のない会話ばかりになってしまう。相手の不安に寄り添うことが大切とわかっていながら、感情を表に出すのが怖い。失敗できない、という意識が強すぎるのかもしれません。
司法書士という仕事が会話の感情を奪っていった?
この仕事に就いて15年以上経ちました。最初は依頼人の不安を和らげるために、なるべく親しみやすい言葉や雰囲気を心がけていましたが、年々その感覚が薄れていきました。おそらくそれは、ひとつひとつの案件に“ミスは許されない”というプレッシャーが積もっていった結果です。気を抜くことができない毎日が、言葉にも感情にも制限をかけてしまったのかもしれません。
失敗できない仕事だからこその慎重さ
司法書士の仕事は、たとえ小さなミスでも信用問題に直結します。一文字間違えただけで登記が通らなかったり、裁判所に提出する書類の提出期限を誤れば、大きな損害につながることもある。そのため、常に「間違えないように」と神経をとがらせています。その癖がプライベートにも染み出して、会話ですら慎重に、慎重に…と無意識にブレーキをかけてしまうようになりました。
登記ミス一つで全責任、自分が壊れる
一度だけ、法務局に提出した書類にケアレスミスがあって、依頼人から激しく叱責されたことがありました。その時の「なんでこんなミスするんですか?」という言葉が今も頭にこびりついています。自分の中で「許されない失敗」として深く刻まれて、それ以来、言動すべてに慎重になりすぎてしまったのかもしれません。責任の重さが、日常の会話にまで影響するなんて、当時は思いもしませんでした。
責任の重さが言葉にも表れる
「おそらく」「たぶん」「念のために」という言い回しが口癖になってしまったのも、すべて責任回避の表れかもしれません。本来なら断言して安心させるべきところでも、間違う怖さからつい逃げ腰の表現を選んでしまう。自分でももどかしく感じます。言葉って、気持ちそのものなんだなと痛感します。だからこそ、無難な言葉ばかりでは人との距離も縮まらない。そんなことは分かっているんです。
愚痴すら吐けない“立場”の孤独
「先生」と呼ばれる仕事は、気軽に弱音を吐けないものです。相談を受ける側であり、答える側である立場。だからこそ「この人に任せて大丈夫」と思ってもらわなければいけない。でもその裏で、誰にも言えない苦しさや不安を抱えていても、それを出す場所がない。だから、愚痴ひとつすら言えずに、どんどん自分の中に溜まっていく。孤独って、静かに、確実に心を蝕むものです。
事務員さんの前で弱音を見せたくない
事務所には長年一緒にやってきた事務員さんがいます。信頼しているし、本当に助けられています。でも、そんな彼女の前で「疲れた」と言うのがどうしてもできない。頼りないと思われたくないし、何より、気を使わせたくないという思いが勝ってしまう。だからつい、元気なふりをしてしまう。すると、ますます本音を出せない自分が出来上がっていきます。
同業者にも本音が言えない不自由
同じ司法書士同士で集まる機会もありますが、そこでもなぜか「競争」がつきまといます。「忙しい?」「うちは今月○件だったよ」といった会話の中に、張り合いの空気があるんですよね。だから、心から弱音を吐ける相手というより、「戦友」でもあり「ライバル」でもあるという存在。結局、どこでも本音が出せず、自分だけが取り残されていく感覚に陥ります。
それでも誰かと話したいと思う夜
どんなに無難な言葉を並べても、本当は誰かに聞いてほしい。理解してほしい。そんな思いが夜になるとふつふつと湧き上がってきます。家に帰ってひとり、ごはんを食べながらテレビを見ても、心が埋まらない。せめて、誰かと自然体で話したい。そう願っても、いざ目の前に人がいると無難な言葉しか出てこない自分に、また少し嫌気が差してしまうのです。
飲み会では笑ってるけど、心がついてこない
久しぶりの飲み会。場を盛り上げようと頑張っている自分にふと気づくと、「ああ、今日も心から笑えてないな」と思ってしまう。まわりの笑顔に合わせて笑ってるだけで、自分の中にはなにも響いてこない。誰かに合わせることばかり上手くなって、肝心の自分自身は置き去り。そんな虚しさが、帰り道にどっと押し寄せてきて、またひとり、帰り道の夜風に紛れてため息をつくのです。
盛り上げ役に徹する自分がしんどい
「○○さんって場を和ませてくれるよね」なんて言われるたびに、ありがたいやら虚しいやら。自分は“そういう役割”を演じているだけで、心から楽しんでいるわけじゃない。誰かが沈黙しそうになったら笑いを差し込み、話が詰まりそうなら別の話題に切り替える。もはや、会話そのものが義務のようになっていて、自分自身を見失ってしまいそうになる瞬間があります。
本当は聞いてほしい話がある
「今日、こんなことがあってさ」と、ただそれだけの話を、気楽に聞いてくれる誰かがいたら…と思うことがあります。別にアドバイスが欲しいわけじゃない。励まされたいわけでもない。ただ、「そうなんだ、大変だったね」と言ってもらえるだけで、少し気持ちが軽くなる気がする。そんな相手がいるだけで、きっとまた、もう少し素直に話せるようになるのかもしれません。
「共感してくれる誰か」への渇望
一人で抱えるには、この仕事も、日常も、少し重すぎると感じることがあります。だからこそ、ただ寄り添ってくれる存在の大切さを思い知らされます。同じ業界でなくても、まったく違う立場でも、誰かと共に“わかるよ”と笑い合える時間があれば、それだけで少し生きやすくなる気がするのです。
同業者でも、依頼人でもない存在
仕事仲間でもなく、依頼人でもない。そんな利害関係のない存在だからこそ、本音で話せるということがあります。昔の友人、たまたま知り合った人、あるいはこうした文章を読んでくれているあなた。そういう存在が、今の自分にはいちばん救いになる。無難な会話ばかりの毎日の中で、ほんの少しの“本音”を共有できる相手。それが、何よりの支えになります。
孤独と無難さの中間にいる人たちへ
もしかしたら、この文章を読んでくれているあなたも、同じように「本音を出せない」もどかしさを感じているかもしれません。そんなあなたへ伝えたい。無難な会話しかできなくてもいいんです。でもその奥に、本当の気持ちがあるなら、いつか誰かに届くと信じていてください。誰かがあなたを理解しようとしている。私もまた、そんな誰かを探している一人です。