夜中に急に掃除を始める癖

夜中に急に掃除を始める癖

また始まった、深夜の掃除タイム

気づけば今夜も、雑巾片手に床を這っている。こんな時間に掃除を始めてどうするんだ、と自分でも思う。でも、頭の中がごちゃごちゃしている時ほど、無性に掃除がしたくなる。別に潔癖なわけじゃない。ただ、頭の中が片づかないとき、せめて目の前のものだけでも整えたくなる。誰にも会わない深夜。誰にも見られない部屋の中。そこで黙々と掃除していると、不思議と少しだけ心が落ち着く。司法書士としての忙しさ、孤独、報われなさ。そんな感情が絡み合って、雑巾に乗り移っていく。

気づけば掃除機を引っ張り出していた

仕事を終えて帰宅するのはたいてい21時過ぎ。事務所のデスクを片づけて帰るはずが、その日は妙にモヤモヤしていた。補正が重なり、役所からの電話にも疲れ果てていた。晩飯を適当に済ませた後、無意識に掃除機を出していた。最初は机の下だけ…と思っていたのに、気づけば玄関、洗面所、そして風呂場まで。気がついたら日付が変わっていた。

心がざわつく夜のルーティン

毎日じゃない。だけど決まって、心が落ち着かない夜に限って掃除が始まる。誰かに言われたわけでもないのに、「ここも汚いな」「ああ、こんなところにホコリが」と手が止まらなくなる。思考が止まらないからこそ、身体を動かすことでバランスを取っているのかもしれない。掃除をしている間だけは、言いようのない不安から少しだけ逃げられる。

片づけたくなるのは、現実を見たくないから

たぶん本当は、掃除をしてるんじゃなくて、「考えないようにしてる」んだと思う。考えたくないこと、向き合いたくないこと。売上の不安、人間関係のストレス、そして何より、このまま独りで年を取っていくんだろうなという不安。それらが夜中に押し寄せてきて、僕は掃除に逃げる。ホコリの奥には、現実から目を逸らしていたい自分がいる。

掃除をしながら考えていること

掃除中、頭は驚くほど働いている。いや、むしろ働きすぎている。仕事の反省から始まり、昔の失敗、気まずかった会話、将来への漠然とした不安…。思考が止まらない。雑巾を絞りながら、「あの案件、あれでよかったんだろうか」「あの人、機嫌悪そうだったな」などと自問自答を繰り返している。そして何も解決しないまま、部屋だけがピカピカになる。

仕事のこと、人生のこと、ちょっとだけ後悔も

掃除機の音が鳴っている間、他の音が聞こえない。その沈黙の中で、ふと昔のことを思い出す。あの時、別の道を選んでいたら今とは違う人生があったのかな、と。独立して司法書士を続けてきたけれど、正直しんどいことも多い。誰にも言えない後悔が、静かな部屋に反響している。

モップの先に、ぐるぐるした思考が絡みつく

どこを拭いても、ホコリの代わりに思考が絡みついて離れない。あれをこうしていれば、こう言えばよかった…そんなことばかり考えていると、床の汚れが心の傷みたいに思えてくる。モップが進むたび、少しずつ気持ちが和らいでいく感覚もあるけれど、完全には晴れない。掃除という行為は、僕にとってある種の儀式なのかもしれない。

なぜ夜中じゃないと掃除ができないのか

昼間は目の前の仕事に追われている。誰かと話して、書類を確認して、登記を進める。その忙しさが終わったとき、ぽっかりとした時間が生まれる。そしてその空白に、疲れや不安が流れ込んでくる。夜中という時間帯は、不思議と本音が顔を出す時間でもある。そのとき、自分の手は掃除道具を握っている。

昼は忙しい。夜は不安が忍び寄ってくる

昼間は「先生」として振る舞っているが、夜になるとただの中年独身男に戻る。人と話すこともなく、テレビの音も煩わしい。静まり返った部屋の中で、不安がじわじわと忍び寄ってくる。その不安を打ち消すように、僕はまた雑巾を濡らす。手を動かしていないと、潰れそうになる。

不安を掃き出すように、部屋を磨く

掃除は、どこか祈りのような作業だ。これ以上、自分が崩れてしまわないようにと願いながら、汚れを落とす。不安も悲しさも、ホコリのように見えればいいのにと思う。見えるものは掃除できる。見えないものは…どうすればいいんだろうか。

掃除でしか整えられないものがある

どれだけ仕事がうまくいっても、誰かに褒められても、心が整っていなければ意味がない。逆に、誰にも気づかれない掃除でさえ、自分の中で「ちゃんとやった」という感覚を持てることがある。掃除というのは、結果が見えるから嬉しい。司法書士の仕事は、見えない努力が多すぎる。

物理的な整理=心の防衛反応かもしれない

掃除という行為そのものが、心の中で崩れそうな何かを支えてくれている。何をしても報われない、そんな気持ちになることもある。そんな時、綺麗になった床だけが、「今日も頑張った」と教えてくれる。人に評価されなくても、自分で自分を認めるための行動なのかもしれない。

書類の山は崩せなくても、ホコリは拭き取れる

事務所のデスクには、いつも何件かの書類が積まれている。それはすぐには片づけられない。でも、床のホコリは今すぐにでも拭き取れる。終わらない仕事に追われる毎日の中で、完了が実感できる数少ない行為が、掃除なのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

服なんかどうでもよくなった日、僕はちょっと疲れていた

服なんかどうでもよくなった日、僕はちょっと疲れていた

朝、スーツを選ぶ気力が消えた

ある朝、クローゼットの前で完全にフリーズしてしまった。並んだスーツを見ても何も感じない。どれもシワが寄っていて、ネクタイの組み合わせなんて考える余裕もない。結局、一番無難なグレーのスーツを手に取り、ネクタイも適当に選んだ。合わせる靴下は左右違っていたかもしれないが、もうどうでもよかった。昔はもう少し楽しんでいた気がする。けれど今は「間に合えばいい」。そんな気分だった。

昔は多少なりとも色合わせを気にしていた

大学生の頃は、服を選ぶ時間が楽しかった。シャツの柄を変えるだけで気分も変わったし、ちょっとしたアクセサリーにもこだわっていた。司法書士になる前、受験勉強で疲れていても、出かけるときにはコーディネートを工夫した。別に誰に見せるわけでもなかったけれど、着る服でその日のテンションが決まるような感覚があったのだ。

今は清潔感さえ保てば合格ライン

今は「しわがない」「汚れてない」「匂わない」。この3点をクリアすれば、それで合格。事務員さんに不快感を与えない程度に整っていれば、もうそれで十分だと思ってしまう自分がいる。おしゃれなんて、そんな贅沢、今の自分には似合わない気がする。何より、忙しさに追われる毎日で、自分を飾ることに意味を感じなくなってしまった。

なぜ、服にこだわる余裕がなくなるのか

それでもふと立ち止まって思う。「なんでこんなに何も気にしなくなってしまったんだろう?」と。確かに、日々の仕事は忙しい。登記の締切、面談のスケジュール、書類の山。だけど、忙しいという理由だけで、自分の気持ちまで殺してしまっていいのだろうか。服にこだわらなくなったのは、心がくたびれている証拠かもしれない。

仕事の優先順位がすべてを飲み込んでいく

朝から晩まで、タスクに追われる毎日。あの相談者に電話をして、この登記を進めて、来週の法務局提出書類も忘れずに――。そんなことばかりを考えていると、「今日は何を着て行こうかな」なんていう気持ちはすぐにどこかへ消えてしまう。服を選ぶより、1分でも多く寝たい。そう思ってしまうほど、仕事は容赦なく時間と余裕を奪っていく。

疲れが積もると、鏡を見るのも面倒になる

朝、洗面所の鏡に映る自分を見ても「どうせ今日も疲れるだけだ」と思ってしまう。髪型を直す気にもなれず、シャツの襟が曲がっていても気づかない。いや、気づいても直さない。「どうせまた汗でよれるし」と。鏡の中に映るのは、身なりを気にしなくなったおじさん。自分でもそう思う。そんな自分に、少し寂しさを覚える。

「人にどう見られるか」より「今日が終わるか」の方が重要になる

独立してからというもの、「外見を整えること」は次第に優先順位が下がった。誰かと勝負する仕事ではないし、服装で評価されるわけでもない。むしろ、仕事の正確さや信頼性のほうが重要だ。そう思ってきたけれど、それは半分正解で、半分言い訳だったのかもしれない。結局は、疲れて余裕を失った自分が、気にしないことにしているだけだった。

事務員さんに言われてハッとした一言

ある日、事務所に入ってきた僕を見て、事務員さんがぽつりと「先生、今日は……寝巻きですか?」と笑った。冗談混じりだったが、その一言が心に突き刺さった。確かにその日、家で過ごすようなシャツに、だるんとしたパンツで来てしまっていた。自分では無難だと思っていたが、外から見ればそう見えたのだ。その言葉で、少しだけ目が覚めた。

他人の目が気にならなくなると、ちょっと危険

服装に無頓着になると、自分が気づかないうちに周囲に与える印象も変わってくる。きちんとしていない=仕事も雑そう。そんな印象を持たれかねない。実際には真面目にやっていても、見た目で損をすることはある。おしゃれをする必要はないけれど、最低限の「整え」は大事だと、改めて思い知った。

おしゃれが自己表現だった時代の記憶

高校生のとき、服にこだわるのが楽しくて仕方なかった。バンドTシャツにジーンズ、流行のスニーカー。親に怒られながら買った服を、大切に着ていた。あの頃は、自分のスタイルを持つことにこそ意味があると思っていた。今はもうそんな気持ちは遠くにあるけれど、ふと思い出すと、少しだけ切なくなる。

若い頃は服にこそ気合を入れていた

20代、初めて法務局で仕事をしたとき、スーツもネクタイもピシッと決めていた。自分が「信頼される人間」に見えるように、それなりに努力していた。服装は自信の一部だった。あの頃の写真を見ると、少しだけ誇らしげな自分がいる。その姿に、今の自分は見劣りしてしまう。

古着屋巡りが休日の楽しみだった頃

休日になると電車に乗って、街の古着屋を何件も回った。掘り出し物を見つけるたびに、まるで宝物を見つけたような気分になった。誰に見せるでもなく、自分のためだけに選んだ服たち。それは、自分を表す手段だった。今ではユニクロ一択。それが悪いとは思わない。でも、あの頃のワクワク感が懐かしい。

好きな服で少しでも自信を持とうとしていた

自分に自信がなかったからこそ、服で補おうとしていたのかもしれない。少しでも「ちゃんとしているように」見られたくて。服を整えることで、心も少しシャキッとした。服とは、不思議なもので、着るだけで内面も変わる気がしていた。それが「装う」という行為の力だったのだろう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。