請求書を出したあとに、心に残ったのは数字じゃなかった
長年司法書士をやってきて、報酬の振込を確認しても心が晴れない日があることに気づいた。確かに、請求した金額通りに入金されている。それはありがたいことだ。でも、心が何かを求めている。そこに添えられる「助かりました」「またお願いしたいです」というひと言が、どれだけ救いになるか。そんなことを考えてしまうのは、私が歳を取ったせいだろうか。いや、きっとこの仕事の“人間臭さ”を大切にしたいと思っている証拠なのだと思いたい。
振込通知が来たのに、なぜかモヤモヤが残る
ある日、午前中のうちに件の報酬が振り込まれていた。処理は滞りなく終わっている。それでも机の前で一息ついたとき、妙な空虚感に包まれた。なぜか心が「これで良かったのか?」とざわついている。思い返せば、あの依頼人からは最後まで何の言葉もなかった。冷たい態度ではなかったが、心に残る言葉もなかった。ただの業務処理だった。人と関わる仕事のはずなのに、まるで機械のように扱われた気がして、なんとも言えない気持ちになった。
「ありがとう」のひと言が空白だった
私はプロとして報酬をいただく立場だ。だから、感謝の言葉をもらうことを前提に仕事をしているわけではない。けれども、たった一言の「ありがとうございました」が添えられるだけで、全然違う。金額では測れない満足感がある。逆に言えば、どれだけ高額な報酬であっても、その一言がないだけで、味気ないものになる。まるで塩を忘れた味噌汁のように、何かが決定的に欠けているのだ。
報酬=評価、という幻想
昔は「報酬さえしっかりしていれば、それが評価だ」と思っていた。実際、開業当初は入金された金額を見て達成感を得ていた。でもいつの間にか、それだけでは物足りなくなっていた。事務所の運営が安定してきたからか、それとも孤独な作業が増えてきたからか。評価とは、金額だけではなく、「この人に頼んで良かった」という実感の共有にあるのだと、最近になってようやくわかってきた。
相手の温度が感じられない時の虚無感
どんなにスムーズに手続きが終わっても、最後に感じるのが無味乾燥なやり取りなら、こちらとしても疲労感だけが残る。依頼人の反応が薄いと、まるでこちらの存在が透明になったかのような感覚になる。誰かの人生に関わる業務であるのに、その実感が持てないというのは、地味につらい。誰でもいい仕事をしているわけじゃない、という気持ちが報われない。
ただの「処理」になってしまった瞬間
登記の申請が無事完了して、メールで完了報告を送った。返ってきたのは「了解です」のひと言だけ。その瞬間、私は完全に「処理係」になってしまった気がした。ミスなく正確に処理することが司法書士の仕事だと分かっているけれど、なんだか寂しい。その「了解」に感情の欠片でも含まれていれば、こんな気持ちにはならなかったのに。
お金は届くけど、気持ちは届かない
報酬は確かに口座に入った。でも、そこには“気持ち”がなかった。この差は大きい。たとえばスーパーでお弁当を買ったとき、無言でレジを通されるのと、「いつもありがとうございます」と言われるのとでは、印象がまったく違う。司法書士の仕事も同じだ。お金のやりとりの裏に、ちょっとした気配りや言葉があるだけで、救われる場面がたくさんある。
司法書士という仕事は「感謝される仕事」だったはず
私がこの道を選んだ理由の一つは、誰かの役に立つ実感が持てるからだった。法律や手続きに不安を抱える依頼人に寄り添って、「この人に頼んでよかった」と言ってもらえたときの嬉しさは、何ものにも代えがたい。でも最近は、その喜びが遠のいているように感じる。忙しさや形式に飲まれて、本来の意味が見えなくなりかけている。
専門職のプライドと、現実のギャップ
司法書士という職業に、誇りを持っている。でも現実には、書類作成屋、手続き屋としか見られていない場面も多い。それが現実だ。SNSでは弁護士や行政書士が華やかに見えることもある。けれど、自分の役割が地味であっても、確かに誰かの生活を支えていると信じていたい。その想いが揺らぐとき、報酬では埋められない空白が心に広がる。
書類は完璧。でも気持ちは不完全
私の作る書類にミスはない。そこは自信がある。でも、その完璧な仕事が依頼人の記憶に残っているかと言えば、そうでもない。むしろ「普通に終わって当然」と思われているような気がする。そう思うたびに、自分の存在が透明になっていくような感覚に陥る。書類は形を残すけれど、気持ちは残らない。そんな仕事ばかりが続くと、心が擦り切れていく。
「感謝されたい」と思うのは甘えなのか
ふと、こんなことでモヤモヤする自分が子どもっぽく思えてくる。プロなら黙って結果を出すものだ、と言い聞かせる。でもそれがずっと続くと、どうしても心が持たない。誰かに頼りにされたという感覚、必要とされた実感が、やっぱり欲しいのだ。甘えかもしれない。でもそれを求めてしまうのが、人間なんだと思う。
他士業と比べたときの報われなさ
弁護士や税理士に比べると、司法書士は地味だ。報酬も知名度も違う。そして何より、ドラマチックな場面が少ない。依頼人の感情の爆発もなければ、感謝の涙に触れることも少ない。そうした中で、「ありがとう」の一言が持つ価値は、想像以上に大きい。日常の中にあるささやかな感謝こそが、私たちの仕事を支えてくれているのだ。
依頼人の無反応に慣れてしまう怖さ
何も感じなくなってきた。依頼人が無反応でも、「まあ、そんなもんだろう」と済ませるようになった。最初は戸惑っていたその態度に、今ではすっかり慣れてしまった自分がいる。これは危険な兆候かもしれない。心の感度が鈍っていくと、仕事の質にも影響してくる。誰のためにこの仕事をしているのか、見失わないようにしたい。
心が乾いた日は、愚痴が栄養になる
最近は誰にも言えない愚痴を、こうして文章にすることでなんとか保っている。人と話すのが面倒な日もあるが、黙っていると心がどこかに置き去りになる気がする。自分の心の声に耳を傾ける時間は、想像以上に大切なのかもしれない。
「またか」とつぶやいたあの日のこと
いつも通りの業務をこなし、振込を確認し、何の反応もないことにため息をつく。そんな日が続くと、自然と口をついて出るのが「またか…」という言葉。もう驚きもしないけれど、心の中では少しずつ何かが削られている。誰にも聞かれない場所での、そんな独り言が、今の自分の本音なのだろう。
事務所で一人、誰にも聞こえない独り言
小さな事務所にこもって、黙々と書類を作り、スキャナーと格闘し、電話に出る。誰もいない空間に響くのは、自分のため息と独り言だけ。ときどき「あー、疲れたな」と声に出して、少しだけスッキリする。でも、それが虚しさを増幅させることもある。独身ということもあり、誰かとこの気持ちを共有できる場が少ないのだ。
事務員との会話に救われることもある
そんな中で、唯一の事務員とのちょっとした会話が、日々の癒やしになっている。「今日は忙しかったですね」と言われるだけで、なぜか心が少し柔らかくなる。誰かに見てもらえている、そんな感覚が大きな支えになる。人とのつながりは、やっぱり仕事の根幹にあるのだと思い知らされる。
小さな「おつかれさま」が沁みる
「お疲れさまでした」たったそれだけの言葉なのに、不思議と心がじんわりする。一人で仕事をしていたら、その一言さえも存在しなかったかもしれない。数字では測れない価値が、そこにある。「人に優しくすることの意味」を、職場の中で再確認させられる。自分も誰かに、そんな一言をかけられる存在でありたいと思う。
それでも続ける理由、たったひとつの瞬間
辞めたいと思った日もあった。けれども、思いがけないタイミングで届く感謝の言葉や、依頼人のほっとした顔を思い出すと、「もう少しだけ続けてみようか」と思えてくる。たった一つのやりとりが、心の支えになる。それがこの仕事の不思議なところだ。
感謝の言葉をもらった、数少ない日
数年前、ある依頼人から登記完了後に手紙が届いた。「本当に助かりました」という一言が書かれていた。たったそれだけなのに、涙が出そうになった。ああ、自分の仕事にも意味があるのだと、初めて思えた気がした。その手紙はいまでも机の中にしまってある。つらくなったら、ときどき取り出して読み返している。
たった一言で全部が報われることもある
多くの依頼人は、無言で去っていく。それが日常だ。でも、ごくまれにかけてもらえる「ありがとう」で、積み重なった疲れが溶けていく。そんな経験があるからこそ、この仕事を続けられているのだと思う。すべては、あの一言のために。
誰かの人生をそっと支えていたことに気づく
司法書士の仕事は、派手ではない。でも確かに、人の生活の裏側で支える仕事だ。登記や契約の一つひとつが、誰かの節目や安心を形にするもの。その意味を忘れずにいたい。そして今日もまた、誰かの「ありがとう」を心のどこかで期待しながら、静かに書類を整えている。
派手さはないが、意味はある
私たちの仕事は、テレビにもSNSにも出ない。でも、誰かにとっての「大切な一歩」を支えるものだ。静かで、地味で、報われにくい。でもそこには、確かに意味がある。私はそれを信じて、また請求書を一枚、送る。