安心感ってどこに売ってますか
「安心感」が見つからない日々に
「安心感」って、どこにあるんでしょうか。最近ふと思うんです。お金を払えば買えるものでもないし、コンビニの棚にも並んでいない。でも、自分の生活には確実に欠けている。そんな感覚に襲われる瞬間が、日に日に増えている気がします。何か大きな問題があるわけじゃない。でも、なんとなく落ち着かない。司法書士という職業柄、責任や重圧に押し潰されそうになる日も多く、ふと「安心して息をつける場所」が欲しくなるのです。
誰にも邪魔されない時間がほしい
事務所を出た瞬間から、また次のことを考えています。休日も電話は鳴るし、どこまでが仕事でどこからが私生活なのか、もう曖昧すぎて境界線がわからない。気がつくと、心がずっと「警戒モード」になっているような感じです。そんな状態で「安心感」を求めるのは、虫のいい話なのかもしれません。でも、求めてしまうのです。たとえ5分でも、誰にも邪魔されない、心がほっとする時間があればと思うのです。
趣味に逃げるも、落ち着かない
以前は読書や音楽が癒しでした。けれど最近は、その時間さえも「この時間に何かすべきでは」と自責の念にかられてしまう。せっかくの休日でも、ゆっくりと味わえない。時計を見るたびに、「また時間が過ぎた」と焦ってしまいます。心が安心を求めているのに、脳は常に「タスクモード」。まるでエンジンを切る方法を忘れてしまった車のようです。
「頑張ってるね」と言われたい
誰かに認められたい。そんな承認欲求があるわけじゃないと思っていたけど、本当は違ったのかもしれません。「ちゃんとやってるよね」と言ってくれる人がいたら、それだけで心が軽くなるような気がします。司法書士という職業は、クライアントの裏方であり、黒子であり、称賛を浴びることなんてほとんどありません。だからこそ、自分で自分を支えるのが限界にくる日もあるんです。
事務員との会話が支えになる
毎日顔を合わせるのは、事務員の彼女だけ。特別に深い話をするわけではないけれど、なんてことない雑談が、今では心の救いです。天気の話、昼ご飯のこと、書類の印刷ミスの話。そうした些細な会話が、心を少しずつ柔らかくしてくれます。安心感は、もしかしたらそういう日常の隙間にこそあるのかもしれません。
「安心」を他人に求めすぎない
誰かと話すことで救われることもあります。でも同時に、自分の中に安心の種を持っていないと、いくら周りに助けられても、結局また不安が顔を出す。だから最近は、「自分で自分を安心させる方法」を模索しています。呼吸を整える、何もしない時間を意識して作る、小さなことに感謝してみる。そういった工夫が、少しずつではあるけれど、効果を感じるようになりました。
どんなに忙しくても、心は置き去りにしない
仕事に追われる日々の中で、つい「感情」を無視してしまうことがあります。「泣いてる場合じゃない」「弱音を吐いても仕方ない」と、自分に言い聞かせる。でも、それって結局自分を消耗させてしまうだけなんですよね。自分の気持ちに目を向けて、たとえ一瞬でも労わる。それが「安心感」への第一歩なのだと、今では思えるようになってきました。
安心感は「完成形」ではなく「状態」
かつては、「安心感」は何か達成した後に得られるご褒美のようなものだと思っていました。でも違いました。安心感は、日々の中で何度も揺れ動くもの。だから、いつも探し続ける必要があるのかもしれません。「今日は少し安心できたな」と思える日を積み重ねていく。そうやって、自分の人生をちょっとずつ整えていくのだと感じています。
最後に:安心は、探すのではなく育てるもの
「安心感ってどこに売ってますか?」という問いに、誰も明確な答えはくれません。でも、その問いを持っている時点で、自分の中にはもう「安心を求める力」が芽生えているのだと思います。あとは、その芽を枯らさず、水をやり、日を当てて育てるだけ。今日も一日、しんどいけど、それでも少しずつ安心を育てていける自分でありたいと思います。
司法書士って、こんなに孤独でしたっけ?
司法書士って、こんなに孤独でしたっけ?
「孤独」は仕事の一部なのかもしれない
独立して10年以上が経ちます。司法書士として地方で事務所を構えてからというもの、気づけば孤独が常に隣にいるような感覚になりました。業務としては依頼人もいるし、事務員さんも雇っています。けれど、心の奥の部分にそっと入り込んでくる寂しさは、誰かと同じ部屋にいたからといって消えるわけではありません。士業というのは、誰かと群れて何かをする仕事ではない。わかってはいるものの、時折、こう問いかけたくなります。「司法書士って、こんなに孤独でしたっけ?」と。
朝、誰とも喋らず始まる日常
出勤して、事務所の鍵を開けて、パソコンの電源を入れる。事務員さんは午後から来る日も多く、午前中は私一人。依頼者からの電話も午前中は少ないので、静寂の中で書類に向かい、黙々と作業を進めます。テレビもラジオも流さず、ただ自分のキーボードを打つ音だけが響く。そんな朝が当たり前になった頃、ふと、「あれ?今日、人と話してないな」と気づくことがあります。これが一日、そして何日も続くと、自分が社会のどこにいるのか、よくわからなくなってきます。
相棒はパソコンと郵便物
机の上に並ぶのは、郵便で届いた謄本の束と、開きっぱなしの法務局サイト。私に話しかけてくれるのは、Googleのエラー通知か、Chromeの自動更新だけです。スマホも通知はなく、LINEは誰からも来ない。せめてカフェでも行こうかと考えても、時間が惜しいからとまたデスクに戻る。この繰り返しの中で、まるで私は人間というよりも、申請機械のように淡々と処理だけを行う存在になってしまったように感じることがあります。
画面越しの会話すらない一日もある
リモートワークが浸透して、オンラインでの打ち合わせやZoom会議も世の中では当たり前になってきました。でも、私の仕事は紙と判子が基本。未だに対面での書類確認や押印が中心です。だからこそ、画面越しの会話すら発生しない。何の通知も鳴らず、一日誰とも言葉を交わさず終わる日もあります。「今日は人間と喋ってないな」と気づいたとき、ちょっとした恐怖を感じます。喉は渇いていないのに、心が渇いていくような感覚です。
missing value──足りないものに気づく瞬間
仕事にはやりがいがあります。依頼者の感謝の言葉をもらえることもありますし、自分のスキルが誰かの役に立っている実感もある。でも、どこかで「何かが足りない」と感じる日も増えてきました。それは、効率でもお金でもない、“感情のやりとり”という人としての基本的な営みかもしれません。missing value——データの世界でよく使うこの言葉が、自分の内面を示しているように感じるのです。
誰かに褒められることのない日々
一人で仕事をしていると、何かを達成しても、それを誰かが見ていてくれるわけではありません。苦労して完了させた登記も、スムーズに終わった成年後見の業務も、自分の中だけで「よし」と思って終わるだけです。依頼者は「ありがとうございます」と言ってくれることもあります。でも、それは一過性の言葉で、根本的に自分の努力を認めてくれる誰かがいるわけではない。小学生のとき、先生に「よくできました」とハンコをもらえた日々が、少し懐かしく思えてしまいます。
「ありがとう」が心に染みすぎる
そんな中、依頼者の一言が異様に刺さることがあります。「先生のおかげで助かりました、本当にありがとうございます」——この言葉をもらっただけで、思わず涙が出そうになることもあるのです。日常的に誰かに認められたり、褒められたりすることが少ない分、その「ありがとう」は、何倍にもなって胸に響いてきます。それだけ、自分の中に“足りていない”感情があったのだと気づかされる瞬間でもあります。
たまの依頼者の一言に救われることもある
数ヶ月に一度、心から感謝してくれる依頼者に出会うことがあります。大抵は高齢の方や、人生の節目で本当に困っていた方です。言葉だけでなく、手紙や小さなお菓子を差し入れてくれることもあります。その小さな善意に触れると、「この仕事を続けていてよかった」と心から思えます。でも、裏を返せば、そう思える瞬間が少なすぎるのかもしれません。missing valueが日々蓄積していく中で、こうした瞬間が、私の心の穴を一時的に埋めてくれるのです。
事務員さんはいても「同僚」とは違う
私には事務員さんが一人います。彼女はとてもよく働いてくれるし、助けられてばかりです。でも、やっぱり“同僚”とは違います。上下関係があるし、立場の違いが会話にもにじみ出てしまいます。こちらの愚痴を言えるような関係ではなく、どちらかといえば、常に気を使う存在。そんな距離感の中で、ますます話し相手がいない状況に拍車がかかってしまいます。
肩の荷を分け合えない現実
一緒に働く人がいるというだけで、少しは気が紛れるかと思っていた時期もありました。でも、現実はそんなに甘くない。代表として責任を負う立場である以上、悩みや不安を軽々しく共有できない空気があります。「これ、どうしようかな……」と思っても、相談できる相手がいないから、自分でなんとかするしかない。これが積み重なると、精神的な疲労感は倍増します。気づけば、誰にも頼らずに処理するのが当たり前になってしまいました。
「社長」であり「雑用係」でもある自分
司法書士というのは、士業でありながら中小零細企業の社長でもあります。経営のことも考えなきゃいけないし、営業もするし、掃除や備品の発注だって自分でやる。登記や相続の相談を受けた後、洗剤が切れてることに気づいて、スーパーに立ち寄る。そんなことの繰り返し。忙しいんだけど、誰ともつながっていないような感覚が残る。これが「ひとり経営者の孤独」なんだなと、改めて感じます。