“先生”って呼ばれるけど、事務所には僕ひとり
「先生」と呼ばれるたびにズレを感じる
僕が司法書士になってからもう十数年が経つ。初対面の人から「先生」と呼ばれるたびに、未だに違和感を覚える。なぜなら、その呼び方に込められた「頼れる存在」「なんでも知っている人」といったイメージと、現実の自分とのギャップがあまりに大きいからだ。僕はただの一人の人間で、日々ミスを恐れながら書類を作成し、事務所のコピー機の調子を気にし、銀行にも走る。背中に「先生」と書かれた旗が刺さっているようで、たまにそれが重たく感じるのだ。
見た目だけは立派に見えるらしい
スーツを着て、名刺を差し出し、ちょっと堅めの言葉遣いをするだけで、「立派ですね」「頼りにしてます」なんて言われる。正直、内心では「こっちも不安だらけなのに…」と思っているのが本音だ。見た目の“ちゃんとしてそう感”と、実際にやってるのがコピーの詰まりを直したり、スキャンがうまくいかなくて試行錯誤したりという現実。このギャップが、なんとも居心地が悪い。名刺の肩書きが勝手に一人歩きして、自分自身が置いてけぼりになる感覚がある。
スーツと名刺があれば“それっぽく”なる不思議
一度、コンビニでスーツ姿の僕がスマホで事務所のFAXが止まったことに焦っていると、後ろに並んでいたご婦人が「先生、お忙しいですね」と声をかけてきた。いやいや、FAX止まっただけなんだけど…と思いつつ、笑顔で「ええ、まあ」と返した。スーツと名刺って、ほんとすごい。外から見たら“立派な先生”に見えるらしい。でも中身は、プリンタのエラー音に怯えながら暮らしてるだけなのに。
実際の業務は泥臭いし、誰も代わってくれない
登記の書類ひとつ取っても、細かいルール変更や、微妙な解釈の違いに悩まされることがある。行政の窓口で、「この書き方では受けられません」と突き返されて、午後の予定が全崩れするなんて日常茶飯事。ミスは許されない。責任は全部こちら持ち。代わってくれる人も、責任を肩代わりしてくれる人もいない。せめて誰かに愚痴でも聞いてもらえたらいいのにと思うが、それすら気軽に言えないのが“先生”業のつらいところ。
事務所には僕と事務員さんだけ
僕の事務所は、地方都市にひっそり構えている。華やかさはないし、広告をバンバン打つようなこともしていない。雇っているのは、長年支えてくれている事務員さんひとりだけ。小さなスペースで、ふたりきりの時間がほとんど。相談内容が重い日なんかは、空気がぐっと重くなることもある。誰かと雑談したくても、その“誰か”がそもそもいない。そういう意味でも、やっぱり僕はいつも“ひとり”なのだ。
相談できる人がいない、という現実
「司法書士って自由業だからいいですね」なんて言われるけど、僕からすれば“孤業”だと思ってる。何か困っても、誰かに「ちょっとこれ見てくれない?」と気軽に頼める環境じゃない。同業の知り合いはいても、皆それぞれ必死に仕事していて、気軽な相談なんて簡単にはできない。日々、判断を一人で下して、一人で責任を取って、一人で疲れていく。それが「先生」と呼ばれる仕事のリアルだ。
「間違えたら誰が責任とるの?」って自分しかいない
僕は日常的に「間違えるな」と自分に言い聞かせながら書類を作る。軽微なミスでも、大きなトラブルに発展することがあるからだ。たとえば、ある日、登記申請でひとつの数字を見落としてしまったことがあった。気づいたときには、既に申請は出ていた。冷や汗が止まらなかった。クライアントに正直に報告して、謝って、手続きのやり直しをした。こういうとき、心の中で叫ぶ。「せめて、誰か一緒にいてくれよ」と。
胃薬を机の引き出しに常備してるの、僕だけ?
繁忙期になると、昼ごはんもろくに食べず、冷めたコーヒーを流し込みながら登記情報とにらめっこする日々が続く。そんなとき、ふと机の引き出しを開けると、胃薬の箱があるのに気づく。いつから入ってたんだっけ? もう癖になってるのかもしれない。人に言うと笑われるかもしれないけど、僕にとってはちょっとした「お守り」みたいなものだ。誰も見ていない場所で、ひとりで踏ん張る毎日。そんな中で、自分を保つための道具のひとつなのかもしれない。
今日も「先生」と呼ばれて、また机にひとり
たまに「先生って呼ばれるの、嬉しいでしょ?」なんて無邪気に聞かれることがある。でも実際には、それがプレッシャーになっている部分も大きい。頼られて、応えようとして、自分の限界を超えて疲れて。それでも今日も朝が来て、また電話が鳴って、僕は「はい、司法書士の〇〇です」と名乗る。そしてまたひとり、机に向かう。たぶん、これからもずっと。