連休なんて、そもそも要らなかったんじゃないか説
世間は連休、私はいつも通りの朝
世の中が連休ムードに包まれるたび、どこか取り残されたような気分になる。朝からラジオでは「今日から三連休ですね」と明るく言うし、スーパーではバーベキュー用の肉がいつもより多めに並ぶ。だが私はというと、いつも通り事務所のドアを開け、コーヒーを入れて、静かな朝に黙ってパソコンを立ち上げている。別に誰かに強制されているわけではないし、嫌々やっているつもりもない。でも気づけば、世間の休日のテンポとは無関係な場所に、自分が定着してしまっている。
カレンダーの赤がむしろプレッシャーに見えてくる
カレンダーに印刷された赤い数字。子どもの頃はそれを見るだけで嬉しくなったのに、今では違和感しかない。「ここは休まなきゃいけない日ですよ」と強制されているようで、かえって落ち着かない。赤い日は人が休む日。でも、自分にとっては仕事が捗る“静かな日”だ。だから無理に休もうとすると、罪悪感に近い感覚に襲われる。これってもしかして、働きすぎの兆候だろうかと一瞬思うが、それ以上深く考えるのはやめた。考えると余計に苦しくなる。
「休まなきゃ」は「働かなきゃ」より重たい
「仕事ばっかりしてないで休みなよ」と人は言うけれど、その“休みなよ”という一言が、妙にプレッシャーだったりする。そもそも休むという行為がうまくできないのだ。無理に休もうとすると逆にソワソワして、手元に仕事がないと落ち着かなくなる。これはもはや依存症かもしれないが、心のどこかで「休んでいる自分」に不安を覚えてしまうのだ。結果、休むより働いているほうが安心するという、なんとも皮肉な状態に陥っている。
テレビの「行楽日和です」にイラッとする朝
朝のニュースで「今日は全国的に行楽日和です」と言われるたび、ちょっとした苛立ちが心に湧く。「こちとら予定ゼロだよ」と。そもそも混雑した観光地が苦手なうえ、誰かと予定を合わせるような人間関係もない。だから連休中の私は、渋滞情報やレジャー特集を見ては、「ふーん、楽しそうだね」と皮肉っぽくつぶやいている。寂しい?いや、それよりも何か置いていかれてる感じが、こたえるのだ。
連休に仕事を入れるのが自然になっていた
最初は「どうせ暇だから」と軽い気持ちで連休中の仕事を片づけていた。それがいつの間にか、連休は“まとまった作業時間”と捉えるようになっていた。平日は来客や電話で中断されるけど、連休中なら静かだし集中できる。だから気づけば、何も予定がないときは自然と事務所へ向かっていた。そう、「自然と」。その“自然さ”が、逆に怖くなることもある。
誰にも邪魔されない=仕事がはかどる
連休中の事務所は静まり返っていて、電話も来ないし、人の出入りもない。まるで自分専用の図書館のようだ。そこに座って黙々と書類を整理したり、登記の下調べをしたりしていると、普段の倍は作業が進む。ある意味では理想的な環境だ。でも、その理想の裏には「誰にも必要とされていない静けさ」も含まれていて、ふとした瞬間に寂しさが顔を出す。
電話も来客もゼロ、まさに“最高の労働環境”
電話が鳴らないだけで、こんなにも集中できるのかと驚いたことがある。来客もゼロ、窓の外に人影もなく、ただ自分とパソコンと書類だけの世界。静寂が好きなタイプだから、むしろこの孤独感が快適に感じてしまう。でも、「快適=幸せ」ではない。ふと時計を見ると、「もう夕方か」と独り言が漏れる。そして、そのまま誰とも会話せずに一日が終わる。そんな日々が、もう何年も続いている。
それが癖になるって、どこかおかしい
こんな生活を続けていたら、「働くのが癖になった」と言っても誰も驚かないかもしれない。でも本当は、「癖」なんて都合のいい言葉で、自分を納得させてるだけじゃないかとも思う。休まないのは努力でも美徳でもなくて、ただの逃避なのかもしれない。休日にするべき“誰かと過ごす”とか“心を休める”みたいなことを放棄した結果、仕事に逃げているだけなのかも。そう思うと少しだけ、胸が痛くなる。
モテない人生に、連休も関係なかった
「モテたい」と思わなくなったのはいつからだろう。昔はそれなりに外見も気にしていたが、今ではユニクロと事務所の往復。そもそも連休に出会いの場なんて行かないし、誰かを誘うようなエネルギーもない。だから、連休中に仕事してるのは、もはやモテとは無縁の生活に最適化された結果なのだ。なんか寂しいけど、否定もできない。
仕事してる方が心の平穏を保てる
人と関わると、どうしても気を使って疲れる。対して仕事は、ルールがあって、手順があって、結果がついてくる。だから心が乱れない。誰かに嫌われる心配もないし、ミスさえしなければ誰にも責められない。そんな“平穏”が欲しくて、仕事にのめり込んでいる自分がいる。でもそれって、本当に平穏なのか。疑問は残る。
でも、ふとした瞬間に「何してんだろ」と思う
コンビニのレジで、家族連れが楽しそうにしている姿を見ると、ふと「俺、何してんだろ」と思う。連休中に事務所で黙々と働く自分を肯定したい気持ちと、どこかで虚しさを感じる気持ちが、交互に顔を出す。これが毎回じわじわとくる。誰かと過ごす時間の代わりに仕事を選んだのは自分だ。でも、選び続けた先に何が残るのか…まだ答えは見つからない。
忙しさで紛らわせるしかなかった
結局のところ、寂しさも不安も、全部“忙しさ”でごまかしてきたんだと思う。仕事を詰め込めば、余計なことを考えなくて済む。そういう生き方を何年も続けて、気づけば連休すらも「暇=不安」の引き金になっていた。たまに立ち止まって振り返ると、ちょっとだけ涙が出そうになる。でもまた、パソコンの前に座ってしまう。たぶん、そうやって今日も夜が更けていく。