「誘う側になる勇気」が出ない朝
気がつけば、もう何年も誰かをこちらから誘った記憶がない。たとえば誰かと飲みに行きたいと思っても、その一歩がどうしても踏み出せない。朝、鏡の前で顔を洗いながら「今日こそは昼休みにでも声をかけてみよう」と決意しても、夕方には「まぁ、また今度でいいか」に変わっている。昔からそうだ。断られるのが怖いというより、「変に思われたくない」という気持ちが強い。別に誘われたいわけでもないのに、なぜか“誘う”ことに自分の価値をかけているような錯覚に陥る。
そもそも「誘う」ってそんなに重要か?
「人を誘うことがそんなに大事か?」と思う瞬間もある。たしかに、仕事が忙しくてそれどころではない日々の中で、無理に人付き合いを増やすことが正しいとも思えない。でも、ふとした瞬間に感じる孤独は、やっぱり“誰かと繋がっていない”ことから来るんじゃないか。声をかける、誘ってみる、そんな小さなアクションが、実は心の健康にとって大切だったりする。わかってはいる。でも実行は難しい。
断られる怖さが根底にある
断られること自体は昔ほど怖くはない。でも、「あの人、なんで急に誘ってきたんだろう」と思われるのが恥ずかしい。学生時代に何度か友達を映画や飲み会に誘って断られた経験がある。そのときの「ごめん、ちょっと都合が悪くて」というセリフが、いまだに頭にこびりついている。実際には相手の都合なのに、なぜか“自分が拒否された”ように感じてしまう。たぶん、こういう記憶が積み重なって、誘うこと自体がハードルになってしまったのだ。
学生時代からの苦手意識の延長線
そもそも“誘う側”になったことがほとんどなかった。どちらかというと、流れに乗るタイプ。クラスで誰かが「今度カラオケ行こうぜ」と言ったら「行く行く」と返す。自分が中心になるのは苦手だった。司法書士になった今もそのままで、事務所でもどこか壁を作ってしまっている気がする。相手を気遣うフリをして、自分が傷つきたくないだけ。誘い下手は、性格ではなく長年染みついた“防御反応”なのかもしれない。
相手の都合を考えすぎてしまう癖
「今声かけたら迷惑かな」「仕事で忙しいかも」「気まずくならないかな」——そんなことばかり考えているうちに、何もしないまま時間が過ぎていく。ある日、思い切って事務員さんに「お昼ご一緒しません?」と声をかけようとした。でも、電話が鳴ってる最中だったし、書類に目を通してるタイミングだったし、って言い訳が次々と浮かんできて、結局そのまま。気を遣いすぎて、自分で自分の首を締めている。
誘ったことで負担になるのではと悩む
「誘われたら断れない人っているし、無理させたくないな」なんて、相手の反応を勝手に想像して動けなくなる。ある意味、相手を信頼していない証拠かもしれない。「誘っても大丈夫」と思える関係性が築けていないことへの不安でもある。気づけば、誘わないことで自分を守り、相手も守ってるつもりで、結局誰とも近づけていない。
仕事でも人間関係でも受け身になりがち
私生活だけでなく、仕事でもこの「受け身癖」は悪影響を及ぼす。司法書士として依頼人と関わる以上、こちらから動くべき場面が少なくない。でも、どうしても“待ってしまう”のだ。お客様からの連絡がなければ、「まぁ、まだ急ぎじゃないのかも」と判断してしまう。結果的に手続きが後ろ倒しになってしまい、クレーム寸前になることも。
事務所内でのコミュニケーションの壁
事務員さんとの関係も、必要最低限になっている。「この書類、お願いできますか」「了解しました」──これだけのやりとりで1日が終わることもある。お互い、余計なことは言わない。気まずくないけど、近くもない。この距離感が一番ラクだと思っていたが、たまに妙に寂しくなる。人間関係は、手をかけないとすぐに“業務連絡だけの世界”になってしまう。
雑談すら「用がなければ話しかけない」文化
昔の職場では「暇そうなときにちょっと世間話」なんて当たり前だった。ところが、自分が代表になってからはそういう空気を作れなくなった。「所長が話しかけたら、何かあるのかと思われるかも」という気遣いが逆に萎縮させてしまう。でも本当は、今日の天気でも、最近見たテレビの話でもしたい。話題がないわけじゃない。ただ、タイミングと勇気がないだけ。
話しかけない=冷たいわけではない矛盾
心の中では「もっと話したい」「関係を良くしたい」と思っている。でも行動に移さない。それを相手がどう受け取るかまでは、正直考えが及ばない。「所長は冷たい」「無関心」と思われていたら…と思うと余計に声がかけにくくなる。こうしてまた、距離は広がっていく。コミュニケーションは、勇気の連続だ。