ひとり暮らしが“快適すぎて”怖くなった日――司法書士の静かな夜の話

ひとり暮らしが“快適すぎて”怖くなった日――司法書士の静かな夜の話

気づけば“快適すぎる孤独”の中にいた

ひとり暮らしの自由さは、ときに人を甘やかす。誰にも文句を言われず、夜中にカップラーメンを食べようが、床に洗濯物を散らかそうが、すべてが自己責任で完結する。最初はその気楽さに感動していたが、気づけば“この静けさ、誰かと共有できないのか?”と妙な不安が胸をよぎる瞬間がある。誰とも話さずに過ごす日が続くと、逆にこの“快適すぎる孤独”が、自分をゆっくり蝕んでいるような気がしてくるのだ。

誰にも気を遣わなくていい生活の落とし穴

司法書士という仕事柄、日中はそれなりに人と接する。しかし仕事が終われば、自宅では完全に一人。風呂の時間も、食事も、照明の明るさも、すべてが自分の自由。最初はそれが嬉しかったが、気を遣わない生活は、実は気を緩めっぱなしということでもある。誰かと暮らしていれば自然と生まれる「緊張感」や「人の目」が、今の生活には皆無だ。これは楽でもあるが、人としての張り合いが失われていくようでもある。

ドアの鍵を閉めた瞬間に安堵する自分がいる

帰宅後、まずすることは鍵を二重にかけることだ。パチンと鍵が閉まる音に安心するのと同時に、「今日も誰にも干渉されないで済む」とホッとする自分がいる。けれど、その安堵感の奥にほんのわずかに「孤立」の影が見え隠れする。誰にも頼られず、誰も頼らない。そんな生活が当たり前になっていくのが、実は少し怖いのだ。

静かすぎる部屋に慣れてしまった感覚

何も音がしない部屋に入った瞬間、昔なら寂しさを覚えた。でも今では、それが普通になってしまった。テレビをつけるでもなく、スマホも見ずに、ただボーッと天井を見ている。静けさに囲まれた生活に、すっかり慣れてしまった自分がいる。この「慣れ」が、知らぬ間に心を硬くしているのではないかと、不意に不安になる瞬間がある。

人と話すこと自体が“業務”になっていく

お客様とのやりとり、電話対応、事務員との会話――すべてが仕事の一環。日々の会話が「業務内」にしか存在しなくなっていることに気づいたのは、ふと休日に声を出さなかったことに気づいたときだった。誰かと他愛のない話をしたい、と思っても、連絡する相手がいない。話すこと自体が「仕事モード」になっている自分に気づいたとき、少しだけ心が冷えた。

事務員との会話が一日の全コミュニケーション

朝の「おはようございます」と、昼前の「この登記、送っておきました」が、その日唯一の会話だった――そんな日が何日続いたかわからない。事務員さんはよくやってくれているし、雑談も多少はあるが、それでも“仲間”や“友人”とはやっぱり違う。事務所内で完結してしまう人間関係の中で、自分がどんどん「社会性」を失っている気がする。

電話が鳴ると少し身構えてしまう自分

電話が鳴るたびに、まず「何かトラブルか?」と身構える癖がついてしまった。普段から緊張を抱えているせいか、誰かから連絡が来る=悪い知らせ、という思考回路になっているようだ。日常の中で雑談の電話が一切ないからこそ、たまに来る私用の連絡ですら警戒してしまう。心がちょっと、硬くなりすぎているのかもしれない。

雑談ができない体質になりつつある恐怖

コンビニのレジで「袋いりますか?」と聞かれて戸惑う。美容室での会話が面倒で、無口な客を演じる。そんな自分にハッとする瞬間がある。会話というものに“余白”を持てなくなっているのだ。業務の会話しかしていないからこそ、意味のないやりとりを楽しむという感覚が、どんどん薄れていく。このままでは、人と接すること自体に支障が出そうな気がする。

休みの日がむしろ落ち着かない理由

カレンダーに「休み」と書かれていても、素直に喜べない自分がいる。何をしていいかわからない、というより、「何もしないこと」に耐えられない。誰とも約束していない日、行く場所もない日、そんな“完全なる自由”に不安を覚えるのだ。仕事がある日は、少なくとも誰かと接することが保証されている。それがない日は、ひたすら自分と向き合うだけで、なんだか怖い。

誰にも話しかけられない休日の重さ

土曜の午後、静まり返った部屋に一人。テレビをつけても笑えない。SNSを眺めても空虚。そんなとき、「このまま誰とも会話せずに日が暮れるのか…」という重苦しさが心を覆う。電話帳をスクロールしても、連絡できる相手がいない。何気ない一言が交わせる人間関係を、いつの間にか手放してしまった自分に気づく。

「何もない日」がちょっと怖い

予定のない休日は贅沢なはずなのに、なぜかソワソワしてしまう。どこかへ出かけようとしても、目的がない。結局、近所のスーパーに行くだけで日が終わる。誰かと「何しようか?」と話すことすらなくなった今、自分の時間が“ただ流れているだけ”になっている。これが“人生”と呼べるのか、不安がふっとよぎる。

ひとりの空間が息苦しく感じる瞬間

夜、布団に入った瞬間、ふと「このまま死んだら誰が気づくだろうか」と考える。スマホは静かで、通知も来ない。外は真っ暗で、自分の呼吸音だけが響いている。ひとりの空間は、時として安らぎを超えて“無音の牢屋”になる。この空間に慣れすぎたこと自体が、自分の人生にとって良いことなのか、わからなくなる。

「このままでいいのか」という夜のつぶやき

静かな夜に湧いてくるのは、必ずしも平和な感情ではない。今日も一日頑張った、というより「なんとかやり過ごした」という感覚の方が強い。司法書士としての責任を果たしているはずなのに、なぜか胸のどこかが満たされない。やりがいと引き換えに、人としての繋がりを失っていないか――夜になると、そんな問いがよみがえってくる。

モテない自分への納得と諦め

「こんな生活してたら、そりゃモテないよな」と、半ば諦めと自嘲の入り混じった感情が湧いてくる。外見の問題もあるけれど、生活に“他人の余白”がないことが決定的だ。ひとりで完結する生活は、人を受け入れるスペースをなくしていく。そんな自分に気づきながらも、変える気力が湧かない。諦めとは、優しさでもあるのかもしれない。

「結婚していたらどうなってただろう」なんて考える夜

たまに、“もしも結婚していたら”という空想をする。誰かと食卓を囲み、他愛もない話をして、テレビのチャンネル争いをする。そんな日常は、自分には想像の中でしか存在しない。でもその想像の温かさに触れるたびに、胸が少し痛む。ひとりの自由と引き換えに、得られなかったものも確かにある。選ばなかった道は、いつも少し眩しく見える。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。