笑顔の裏で、ほんとの自分が消えていく気がした日
朝の鏡に映るのは、誰に見せるための顔か
朝、顔を洗って、髭を剃って、ネクタイを締める。鏡の前でつくる笑顔は、もはや条件反射のようなものだ。「今日もよろしくお願いします」と事務員に声をかける瞬間、その笑顔は完成する。けれど、その顔が誰に向けたものなのか、自分でもよくわからなくなるときがある。たぶん、依頼者でも、事務員でもなく、自分自身に「大丈夫」と言い聞かせるための表情だ。
「元気そうですね」と言われるたびに
「お元気そうですね」と言われるたび、心の奥にざわつきが生まれる。元気に見えるように振る舞っているだけで、実際は心がすり減っている日もある。依頼者に不安を与えないように、職員に変な気を使わせないようにと、常に“いい空気”を作ろうと無意識に頑張っている自分がいる。
表情を作るクセがついたのはいつからか
いつからだろう。表情を“作る”ことが当たり前になったのは。大学時代はもう少し素直に喜怒哀楽を出していた気がする。司法書士になってから、責任ある立場でいるうちに、感情を抑えることが「プロっぽさ」だと信じるようになっていた。
本音を語ると「疲れてますね」で終わる虚しさ
たまに本音を漏らしてみると、「あー疲れてるんですね」と一言で片付けられる。そんな時、自分の中の小さな声が「もう喋るな」と言う。だからまた、何も言わず、笑って終わる。言葉にしなければ傷つかずに済むと思って。
司法書士は“明るさ”も仕事の一部なのかもしれない
書類だけを扱う仕事のはずなのに、実際は“人間”を扱う仕事でもある。依頼者とのやり取りでは、重い事情や人生の岐路に立ち会うことも少なくない。そんな時、必要なのは“正確さ”だけじゃなく、“安心感”なのだと何度も学ばされた。
クライアント対応と演技の境目
「安心してください、大丈夫です」と言うとき、自分でも半分は祈るような気持ちだ。演技だとわかっていても、その演技に救われる人もいる。だから、自分の不安や疲れをぐっと抑えてでも、笑顔をつくる。
笑顔で送る登記完了の報告書
登記完了の報告をするとき、クライアントが嬉しそうな顔をしてくれる。それだけで報われる、と思いたい。でもその裏で、「ああ、またひとつ自分の感情を飲み込んだな」と感じることもある。
電話の向こうの声に合わせてトーンを調整する日々
電話応対は“声の表情”がすべて。相手のテンションが高ければこっちも元気に、落ち込んでいれば優しく。それが当たり前になっているから、終わった後はぐったり。誰かと喋るだけで体力を使う、そんな年齢になってきた。
「無理してるね」と言われることの、苦しさと救い
たまに、親しい知人や古い友人が「無理してるね」と言ってくる。その一言は、ぐさりと刺さる。でも同時に、見抜かれていたことが少し嬉しかったりもする。誰かがちゃんと見てくれていたという感覚。
バレた安堵と、隠せなかった自分への敗北感
「なんでバレたんだろう」と思うと同時に、「やっぱり無理してたんだな」と自覚する。バレたことが恥ずかしいのではなく、そこまで我慢してる自分に気づいてなかったことが恥ずかしい。
正直に話せる相手がいないという現実
忙しさにかまけて、プライベートの人間関係は薄くなっていった。何でも話せる友人なんて、今はいない。だからこそ、ちょっとした雑談や、コンビニ店員の「おつかれさまです」の一言がやけに沁みる。
だからこそ、たまに漏れた弱音は止まらなくなる
気を許せる人と会話すると、気づかぬうちに弱音が止まらなくなることがある。まるで堰を切ったように。普段どれだけ我慢しているかが、そこでようやくわかる。
ほんとの自分を少しだけ許せた日
ある日、事務所のカーテンを開けずに仕事をしていた。暗い部屋にパソコンの光だけが灯る。誰も来ないその時間、無理に笑わなくていい。誰にも見られていない時の自分は、案外、穏やかだった。そうか、無理しなくてもいい日もあるんだ。
無理に笑わずに、ふっと息をついたとき
その日は珍しく、事務員にも「今日はちょっとテンション低いかもしれない」と正直に伝えた。驚かれるかと思ったが、彼女は「そういう日もありますよね」と言ってくれた。なんだ、言ってよかったんだ。
それでも回る司法書士の仕事
仕事は淡々と進んだ。むしろ、無理してない分だけミスも少なかった気がする。自分を取り繕わなくても、ちゃんとやれるんだと少し自信がついた。
明日もまた、ちょっと無理して笑うかもしれないけど
きっと明日もまた、誰かの前では笑う。それでも、たまに自分に優しくしてやれるようになっただけで、この歳の自分にとっては大きな一歩だ。