ひとりで食べる夕飯に、ふと考えること
夜7時過ぎ、コンビニで買った弁当を温めながらテレビをつける。その時間が、いつも一番虚しい。黙々とご飯を食べながら、ふと考える。「もし、結婚してたら今の俺はどうなってたんだろうな」と。別に結婚に夢を見てるわけじゃない。でも、誰かと一緒にこの夕飯を囲む日が、あってもよかったんじゃないかって。そんな夜が、年々増えている気がする。
スーパーの総菜売り場で立ち止まる
ある日の帰り道、近所のスーパーに立ち寄った。カゴを持った家族連れや、夫婦で献立を相談している姿を横目に、俺はいつものように揚げ物の前で立ち尽くしていた。「今日は何が一番、腹持ちいいかな」そんなことを考えていると、急にその光景が遠く感じた。まるで、自分だけが透明人間になったような、取り残されたような。そんな感覚に襲われた。
今日は誰かと食べたかった
別に毎日じゃなくていい。週に一度でも、月に一度でもいい。ただ、「今日は何食べたい?」なんて他愛ないやりとりを交わせる誰かがいたら。味噌汁の味加減を少し気にしてくれる人がいたら。そう思ってしまう夜があるのは、きっと俺が弱ってるからなんだろう。強がってるけど、本当は寂しさを隠しきれていないのかもしれない。
でも家には、誰も待っていない
玄関を開けた時の静けさは、慣れたようで慣れない。ポストに届くのは税理士からの封筒ばかりで、ぬくもりなんて欠片もない。テレビの音量を上げても、心の空白までは埋められない。仕事帰りのこの時間、誰かが「おかえり」って言ってくれたら、こんなに虚しくないのに――そう思ってしまうのは、贅沢だろうか。
結婚を選ばなかった、いくつかの理由
俺は結婚を“しなかった”というより、“できなかった”のかもしれない。自分の意志で選んだと思っていたけれど、振り返ると、ただ流されてきただけのような気もする。忙しさにかまけて、出会いを遠ざけて、気づけばこの歳になっていた。選ばなかったというより、選ぶことすら考える余裕がなかったのだ。
忙しい。ほんとに忙しい。それだけだった
司法書士という仕事は、想像以上に神経を使う。登記のミスは許されないし、スケジュールも読めない。おまけに、相続案件が重なる時期には土日も潰れる。そんな日々が続けば、そりゃ人間関係も育たない。最初は「仕事が落ち着いたら」なんて言い訳していたけど、そんな日は結局来なかった。
「落ち着いたら」なんて、永遠に来ない
“落ち着いたら”という言葉ほど、現実逃避の言い訳に向いてる言葉はないと思う。忙しいのは今だけ、そう信じてきたけれど、仕事というのは勝手に終わらせてくれない。むしろ年を重ねるごとに責任だけが増えていく。気づけば、プライベートを「落ち着くまで」と後回しにして、何も育っていない40代になっていた。
向いてなかったのか、逃げただけなのか
時々考える。俺は本当に“ひとりが好き”なのか。それとも、人と深く関わるのが怖くて逃げてきただけなのか。自立しているように見せて、本当は誰かに頼ることが怖かっただけなんじゃないか。強がりという仮面の下にある、自分の弱さを直視するのが怖くて、逃げてきたような気もする。
司法書士という仕事がくれたもの、奪ったもの
この仕事に誇りはある。だけど、そのぶん代償も大きかった。誰かの人生の転機に関わることはできる。でも、そのたびに「自分はどうなんだ」と突きつけられる。感謝されることもある。けど、寄り添ってもらえることはない。いつも一方通行で、どこか孤独だ。
自由なはずなのに、身動きは取れない
士業というのは一見自由そうに見える。確かに勤務時間を自分で決められるし、休もうと思えば休める。でも現実は違う。依頼が重なれば夜中でも対応せざるを得ないし、急なトラブルには土日も関係ない。「自分で選んだ道」だからこそ、どこにも文句が言えず、自分を追い詰めてしまう。
感謝されても、寄り添われることはない
登記が終われば「ありがとうございます」で終わる関係。それが当たり前だけど、やっぱり少しだけ、寂しさを感じることがある。依頼者に感情移入しすぎてもいけないし、距離を保たなければならない。だけど、それって結構孤独だ。感謝はされても、こちらの苦労や葛藤は誰にも見えない。
依頼者の幸せを支えるたびに、自分の空白が広がる
婚姻届受理証明の添付や、所有権移転登記の準備をしながら「お幸せに」と心の中で思う。けれど、その一方で自分には何も変化がないことに気づく。誰かの人生が前に進むたび、自分の人生が取り残されていくような錯覚。支えているはずなのに、自分はどこへ向かっているのか、時々わからなくなる。