気づけば、休日はひとりで終わっている
最近の休日、誰と話しただろうか──。そんなことをふと考えて、ぞっとすることがある。コンビニのレジで「温めますか?」と聞かれて「はい」と答えただけ。それ以外は、声を発することもなかった日もある。かつては、友人と過ごすことも、時には合コンのような場に出ることもあった。けれど今は、週末になると「とにかく誰にも会いたくない」が先にくる。人付き合いが億劫になったのか、それとも心のどこかで、誰にも会えない自分をごまかしているのか。気がつけば、休日の孤独が当たり前になっていた。
誰にも会わない日常に、最初は戸惑いがあった
数年前までは、休日に一人でいることに不安を感じていた。「このままでいいのか」「寂しくないのか」など、根拠のない焦りのような感情が胸を締めつけていた。実際、仕事終わりに誰かと食事に行くこともあったし、休日は同業の知人と将来の不安を話し合ったりもしていた。しかしある時期から、誘われなくなった。そして、自分からも誘わなくなった。断られるのが怖いというより、「今さら何を話せばいいのか」がわからなくなっていた。そうして、人との距離感がじわじわと空いていったのだ。
「予定ゼロ」がむしろ気楽だと感じてしまう瞬間
「土曜日の予定が真っ白だと、少し安心する」──これは、ある司法書士仲間の一言だ。僕も思わず頷いてしまった。人と会うという行為には、やはり準備が必要だ。話題を用意し、身なりを整え、相手の機嫌を気にして言葉を選ぶ。そうした一連のプロセスを思うと、「誰とも会わない」ことが最もコスパがよく、精神的に消耗しないと感じてしまう。誰かと楽しい時間を過ごすことがまったく嫌というわけではない。ただ、その「楽しい」のために使うエネルギーが、今の僕にはもう残っていないのだ。
昔はもう少し、人と関わっていた気がする
思い返せば、30代前半の頃はもう少し社交的だった気がする。司法書士としての駆け出し時代は、誰かに頼ることも多かったし、仕事が終わったあと飲みに行くのがストレス発散にもなっていた。だが、独立して事務所を構えてから、どこかで「人に甘えてはいけない」と自分を追い込むようになったのかもしれない。少しずつ、自分の中の「人と関わる時間」を削っていった結果が、今のこの孤独なのだろう。誰にも会わない休日が、知らぬ間に標準設定になってしまった。
司法書士という仕事の性質が、人を遠ざける
司法書士という仕事は、常に誰かの依頼に応える仕事だ。日中は書類に追われ、電話に追われ、人に追われる。感情を表に出すわけにもいかず、黙々と事務処理をこなす時間がほとんど。だからこそ、休日くらい誰にも干渉されたくないという反動が起こる。だが、それが積み重なると、人間関係そのものが“面倒なもの”に見えてきてしまう。そして気づけば、プライベートでも誰にも会わなくなる。仕事の緊張を抜くはずの休日が、ただの無言の一日に変わっていくのだ。
平日は誰かの依頼に追われ、休日は反動のように孤独になる
「人と会う元気が、もう残っていない」。これは、金曜日の夕方によく思うことだ。一週間、顧客や金融機関との調整、登記申請の締め切りに追われて、自分の感情すら置き去りになっている。そのまま迎える週末は、誰かと過ごすという選択肢がもはや頭に浮かばない。疲れ果てた体と心が、ただ静かにしていたいと訴えている。こういう日が続くと、休日に人と会うという行動そのものが「無理をしていること」のように感じてしまう。結局、誰とも会わず、テレビの音だけが部屋に響く。
「話したいこと」があっても、話す相手がいない
不思議なもので、誰かに話したいことがふと浮かぶことがある。でも、その瞬間に「誰に話そう?」となって、そこで止まってしまうのだ。事務所の事務員さんに雑談をふることもあるけれど、彼女には彼女の生活があるし、あまり深く踏み込みたくはない。昔の友人にLINEを送るのも、何となく気が引ける。いつからこうなったのか、自分でもよく分からない。ただ、今の僕には「気軽に連絡できる誰か」が少しずつ消えていっただけなのだと思う。
そもそも、心を開ける場所が見当たらない
司法書士という職業は、信用と形式が重んじられる。だからこそ、弱音を吐く場面が極端に少ない。相談できる人がいないというより、相談「してはいけない」と思い込んでいる節もある。世間体や信頼のバランスを考えすぎて、結局は何も言えないまま、自分の中で処理してしまう。気づけば、感情の行き場がなくなり、休日にも心を閉ざしたままで過ごすようになった。会話がないから、気づくこともない。だからこの孤独にも、だんだん鈍感になってしまうのだ。
ひとりの休日に襲ってくる「焦り」と「開き直り」
静かな休日を過ごしていると、ふと「このままでいいのか?」という声が頭に浮かぶ。それは焦りなのか、諦めなのか、自分でもよくわからない。休日の午前中、洗濯物を干したあと、急に胸が空っぽになることがある。誰にも会わない日々に慣れきってしまった自分に、ほんのわずかな罪悪感を抱く。でも、もう誰かと積極的に関係を築くほどのエネルギーは残っていない。そうやって「まあ、これが自分だ」と開き直っていくのだ。
「このままでいいのか」という問いに答えられない
年齢を重ねるごとに、「このまま老いていったらどうなるんだろう」という不安が襲ってくる。友人たちは家庭を持ち、子どもとの時間を過ごしている。そんな姿を見るたび、比較しても仕方ないと思いながらも、心のどこかで自分の選択を疑ってしまう。しかし、司法書士という仕事に誇りがないわけではない。むしろ、日々の業務にはやりがいを感じている。問題は、仕事以外の時間の“空洞”をどう扱っていいかわからないということだ。
寂しさすらルーティンに組み込まれていく
いつしか、孤独すらも「日常」の一部になった。朝起きて、誰とも話さずに食事をとり、録画したドラマをぼんやりと眺める。そんな休日が毎週のように繰り返されると、もはやそれが異常とも思わなくなってしまう。感情の起伏がないことに、逆に安心すら覚える。「静かな生活」が心地よく思えてしまうが、その裏にあるのは、人間関係からの完全な撤退かもしれない。そして、それに気づかないふりをして過ごすのが、今の僕だ。
そして気づけば、もうつらいとも思わなくなっている
以前は「このままではまずい」と思っていた。でも最近は、その“まずさ”すらも感じない。むしろ、誰にも会わず、何も話さないことに安定感すらある。この感覚が、良いものなのか悪いものなのか、自分では判断できない。ただ、確実に言えるのは、誰かに「最近どう?」と気軽に聞かれることすら、少し面倒に感じるようになったということ。それでも、それが今の“普通”になってしまったのだ。
そんな日々に、希望の芽はあるのか
このまま静かに老いていくのだろうか。そんなことを考えていたある日、郵便局の窓口で「暑いですね」と話しかけられた。その何気ない一言が、妙に心に沁みた。言葉を交わすという行為が、これほどまでに心を動かすとは思わなかった。人との関わりが完全にゼロになることはない。だからこそ、ほんのわずかなやりとりにも、救われることがある。そしてその小さな希望は、次の一歩に繋がっているのかもしれない。