誕生日に気づいたのは、もう寝る直前だった

誕生日に気づいたのは、もう寝る直前だった

自分の誕生日を忘れていた45歳司法書士の夜

司法書士をやっていると、「自分のことは後回し」が当たり前になる。依頼人の都合、締切、登記の申請、法務局の受付時間、すべてに追われて、気づいたら「今日が何日か」すらも頭にない。そんなある日の夜、布団に入ってスマホを見ていたら、カレンダーの通知がこう言った。「今日、誕生日」。一瞬、なんのことか分からなかった。しばらくして「ああ、自分のことか」と気づいた。その瞬間、なんとも言えない空虚さがこみあげてきた。

「あれ、今日って何日だっけ?」と気づいた23時半

その日は朝から役所まわりで、依頼人の相続関係説明図を整理し、午後は金融機関とのやりとりで詰め切り。夕方からは登記オンライン申請の準備で、気づけば夜9時。夕飯もコンビニのおにぎりで済ませ、事務所を閉めたのは22時を過ぎていた。帰ってきて風呂に入って、ふとスマホを見たとき「今日が誕生日」だと気づいた。誰からもLINEもメールも来ていない。SNSも誕生日設定してない。つまり誰にも知られてない。それ以前に、自分自身が忘れていたのだ。

気づいたきっかけは、クライアントからのLINE

唯一、それっぽいメッセージがあったのは、午前中に来ていたクライアントからのLINE。「先生、今日は良い日になりますように」とだけ書かれていた。当時は「なんだろう?」と思ってたけど、今思えばあれは気遣いだったのかもしれない。実は何かで僕の誕生日を知っていたのか、それともただの偶然だったのか。確かめる勇気はなかったけれど、その一文だけが、後になってじんわり染みた。

祝ってくれたのは、昔の同期だけだった

その日の深夜、寝ようとしてからFacebookを久々に開いた。唯一「誕生日おめでとう」とメッセージを送ってくれていたのは、司法書士になる前に一緒に働いていた法務局時代の同期。彼も今は別業種に転職している。「もう司法書士やってないけど、あんたはよく頑張ってるよ」と書かれていた。涙は出なかったけど、泣きそうだった。祝ってくれたのが、10年以上前の仲間だけってのが、逆に妙にリアルで、しんどかった。

司法書士って、こんなに孤独な仕事だったっけ?

司法書士の仕事は「人と関わる仕事」と言われる。でも実際は、誰かの書類を整えて、誰かの登記を通すだけ。感謝されることもあるけど、それ以上に機械的に処理することが求められる。日々、パズルのように書類をはめ込み、漏れがないように神経を尖らせる。そして、そのすべてを一人でこなす。だからこそ、自分の存在が誰からも祝われないとき、自分が機能としてしか存在してないような感覚に陥る。

事務所には人がいても、気持ちは一人

事務員さんはいる。真面目で助かってる。でも彼女は僕のプライベートには一切関与しない。たぶん僕がそういう空気を作ってるから。誕生日の話をする間柄じゃないし、そもそも覚えてもらおうとも思っていない。仕事中に雑談は少しあるけど、それ以上には踏み込まない。だからこそ、僕が誕生日を忘れてても誰も気づかない。そういう関係が楽なときもあるけど、やっぱり人間って、どこかで誰かに「気づいてもらいたい」と思ってしまう。

「お誕生日おめでとうございます」なんて言葉とは無縁

最後に「誕生日おめでとう」って直接言われたのはいつだったろう。家族と絶縁しているわけじゃないが、今は電話すらめったにない。恋人もいない。結婚もしてない。ましてや子どもが「お父さんおめでとう」なんて言ってくれるはずもない。つまり、祝われる理由も相手も存在しない。司法書士という肩書はあるけど、「誕生日を祝われる人」としての自分は、社会から消えてるんだと感じてしまう。

働いて、食って、寝るだけのループ

朝起きて仕事して、コンビニで適当に食事を済ませて、帰って寝る。その繰り返し。誕生日と気づかなければ、なんてことない「普通の一日」だった。だけど誕生日だと知った瞬間、「この日ですら変化がないのか」と気づかされてしまった。ループに埋もれて、自分の存在がぼやけていく感覚。生きてはいるけど、「自分で自分を雑に扱ってる」そんな感覚に、少しだけ胸が苦しくなった。

「お祝い」よりも「今日も無事終わった」が本音

誕生日を迎えて一番に感じたのは、「ああ、今日も何事もなく終わった」という安堵だった。事故もトラブルもなく、クレームも来ず、書類も無事通った。それだけで十分と言えばそうだ。でも、そうやって「特別な日」を無理やり普通に処理してる自分に、どこかで悲しさを感じている。お祝いを求めてるわけじゃない。でも、せめて少しだけでも「特別感」が欲しい、そんな気持ちも否定できなかった。

誰にも邪魔されない日々は、楽だけど寂しい

一人で気楽に仕事して、一人で食事して、一人で寝る。誰にも指図されず、自分のペースで仕事できる。それは確かに自由で、ストレスが少ない。けれど、その反面「誰にも必要とされていないような気持ち」も同時にやってくる。誕生日は、その象徴みたいなものだ。だれからも邪魔されず、静かに終わる1日。でもその静けさが、時に耳鳴りのように重く響いてくる。

仕事が忙しい=幸せ ではない

「忙しくて誕生日を忘れてたんだよね」と笑って言えるうちはまだいい。けど、それが何年も続いて、しかも笑えなくなったとき、それは少し危険信号かもしれない。僕たち司法書士は、忙しさを言い訳にして「自分を大事にしない」ことに慣れてしまっている。たまには自分のことを祝ってもいい。ケーキを買うだけでもいい。忘れていた自分を、ほんの少しでも思い出してあげることが必要なんじゃないかと、深夜の布団の中で思った。

それでも明日は来るし、また誰かのために働く

誕生日は終わった。祝われなくても、自分でも祝わなくても、また明日はやってくる。朝になれば、また誰かの登記を処理し、誰かの悩みに応える日々が始まる。そうやって、また「自分は後回し」の日々が続く。でも、それが司法書士という仕事であり、誇りでもある。たとえ自分の存在感が薄れても、誰かの人生をそっと支えている。それが、僕の役目なのかもしれない。

司法書士の仕事は、感謝されることもある

時々、すごく丁寧なお礼の手紙をいただくことがある。「先生のおかげで、無事に手続きが終わりました」「もうひとりで悩まずに済みました」。その言葉を読みながら、「ああ、この人の人生の一部に関われたんだ」と実感する。誕生日を忘れてもいい。こうやって誰かに感謝されることで、自分の存在がちょっとだけ報われる気がする。司法書士という仕事は、そんな小さな喜びでなんとか保たれている。

不意に届く「ありがとうございました」の破壊力

普段は事務的なやりとりが多いけど、まれに心のこもった言葉が届くと、胸に刺さる。特に、思ってもいなかった人から「先生、感謝してます」と言われると、それだけで何日も頑張れる。誕生日にケーキがなくても、誰にも祝われなくても、その一言があるだけで救われる瞬間がある。それこそが、この仕事のやりがいだと思う。

誕生日よりも、そんな一言に救われる

結局のところ、僕にとって「誕生日」よりも大事なのは、「今日も誰かの役に立てたかどうか」なんだと思う。祝われなくても、忘れられても、誰かの役に立てていれば、自分の存在には意味がある。そうやって自分を納得させて、また朝を迎える。それでもやっぱり、来年の誕生日は、カレンダーに印つけておこうかなと、少しだけ思った。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。