昔のつながりに執着しすぎていたのかもしれない
会えなくなった友人に対して、どこか心の中で「また昔のように戻れる」と思っていた節がある。けれど、年月が経てば、それぞれが別々の価値観や生活スタイルを持つようになるのは当たり前だ。僕はその変化を、どこかで受け入れきれずにいたのかもしれない。今でも懐かしさと寂しさが入り混じる感情が残るが、無理に昔の形を維持しようとするより、変化した今を認めることが大切なのかもしれない。
友人との「共通言語」がなくなるという現実
昔の友人と話していて、話題が噛み合わない瞬間がある。たとえば彼らがPTAの話をしているとき、僕は次に控えた登記申請のことを考えていたりする。かつては共通していたはずの「悩み」や「関心」が、今ではまるで別世界のものになっている。共通言語がなくなるというのは、実は人間関係において致命的なことなのかもしれない。関係が切れたわけではなくても、そこに横たわる溝は意外と深い。
それでも縁が切れないのはなぜだろう
不思議なことに、話題も噛み合わず気まずい時間が続く相手でも、「また会おうな」と別れ際に言ってしまう。どこかでまだ、あの頃の友情が生きていると思っているのだろうか。年に一度会うかどうかの仲でも、連絡先を消す気にはなれない。切れていないけれど、つながっているとも言えない。そんな関係でも、心のどこかで安心している自分がいる。きっと、縁というのはそう簡単に断ち切れるものじゃないのだ。
新しい関係を築くことの難しさ
昔の友人たちと疎遠になったからといって、じゃあ新しく友人を作ればいいじゃないか、と思うかもしれない。だけど、大人になるとそれが想像以上に難しい。仕事以外のつながりがほとんどなく、趣味もない自分にとっては、人との関係を一から築くのはハードルが高い。誰かと雑談をすることさえ億劫に感じる日もある。気づけば、社会の中で「孤立している」感覚だけが、じわじわと大きくなっている。
仕事以外で人と関わる機会がない
司法書士という仕事は基本的に一人で完結する。依頼者とのやり取りはあるものの、それも仕事の範囲内だ。終われば次の案件、また次の申請。人と雑談することすら少なくなっている。職場の同僚という存在もないし、仕事終わりに飲みに行くような関係もほぼない。だからこそ、仕事以外での関係づくりが絶望的に難しい。名刺も役職もいらない「ただの自分」として関われる人間関係が、どれほど貴重なのかを痛感する。
地域のつながりに期待してみたけど…
一度だけ、地元の地域イベントに参加してみたことがある。神社の清掃活動だった。地域の人と話すきっかけになるかもしれないと思って勇気を出して行ったのに、結局何も話せなかった。世代の違いもあるし、すでに出来上がったコミュニティに入るのは至難の業だった。空気を読みすぎてしまう自分の性格もあり、終始気を遣って終わった。あれ以来、「やっぱり無理かも」と思ってしまっている。