メールの返信がないだけで心がざわつく日々

メールの返信がないだけで心がざわつく日々

心がざわつくのは、たった一通のメールが原因

朝イチで送ったメール。相手からの返信がないまま昼を過ぎ、夕方になり、日が暮れても通知は鳴らない。それだけで、なんとも言えない不安が胸の内に広がっていく。こちらに非があるのではないか、失礼な文面だったか、そもそも嫌われているのでは……と、勝手な妄想が頭の中でぐるぐる回る。仕事柄、連絡の遅れが命取りになることもある司法書士にとって、「返信がない」状況は精神的にかなりこたえる。特に独りで事務所を回している身としては、話し相手もおらず、ざわついた気持ちをどこにもぶつけられないのがつらい。

返信が来ない=拒絶?という勝手な思考回路

返信が来ないことに対して、「忙しいのだろう」「忘れているのかも」と理性的に受け止められる人もいるかもしれない。しかし、自分は真逆だ。まるで恋愛中の高校生のように、たった一通の返信の遅れに一喜一憂してしまう。相手の沈黙を「拒絶」と受け取ってしまい、自分の存在を否定されたような感覚に襲われる。まったく、大げさだとわかっていても、心は理屈通りには動かない。むしろ、年齢を重ねるごとに不安への耐性が下がっている気すらするのだ。

思い当たる節がないのに不安になる

「何かまずいこと書いたかな?」とメールを10回以上見返すことがある。自分としては丁寧なつもりだった言い回しが、相手には高圧的に響いたのではと心配になったり、敬語の使い方が微妙におかしかったのではと悩んだりする。でも冷静になって考えてみると、相手は単に忙しくて返信できていないだけかもしれないし、スマホを落としただけかもしれない。そうとわかっていても、「思い当たる節がない」ということ自体が、逆に不安の種になる。自分では見えていない何かがあるのではと疑心暗鬼になるのだ。

言葉が足りなかったかも…と振り返ってしまうクセ

司法書士の仕事は「言葉」が命。だからこそ、送ったメールの一文一文に対して過剰に意味を込めてしまうクセがある。「〇〇と記載したが、△△とも取れるな…」「絵文字を入れておいた方が柔らかくなったか?」と、振り返りは止まらない。これは仕事上の慎重さでもあるのだが、私生活にも影響してくる。友人や家族とのやり取りでも同じように「ちゃんと伝わったかな?」と気を揉むようになり、余計に自分を疲れさせてしまっていることに、最近ようやく気づいた。

司法書士という仕事は「返信」が命綱

私たち司法書士にとって、メールやFAX、電話といった「連絡手段」はすべて業務の根幹に関わってくる。ひとつ返信が遅れるだけで、登記の段取りがずれたり、書類の提出が間に合わなくなったりすることもある。しかも、その遅れはクライアントや提携先にも影響を及ぼす。そうなると当然、責任はこっちに返ってくる。だからこそ、返信がない時間は恐怖であり、ストレスであり、何より「待つことしかできない」もどかしさに心が削られるのだ。

連絡が止まると、仕事が止まる

業務というのは、たいてい何かを「待つ」ことから始まる。依頼人の資料、銀行の確認、役所の回答。そしてそれらの連絡が滞ることで、こちらの作業が一斉に止まる。まるで歯車の一つが欠けた機械のように、事務所の時間がピタッと止まってしまう。そして私は、動かない画面とにらめっこしながら、「今、私って仕事してるんだっけ?」と自問する時間に突入するのだ。

催促する側のストレス、される側の事情

催促のメールを書くとき、いつも少し罪悪感を覚える。「お忙しいところ恐れ入りますが…」の定型文を使いながら、心の中では「早くしてくれ…」と叫んでいる。かといって催促をしないと、業務が進まない。相手にも事情があるとわかっているが、こっちにも締め切りがある。結果的に、催促をしてもストレス、しなくてもストレス、という二重苦の中で毎日メールを書いている。もはやメールを書く手も重くなるばかりだ。

事務員さんに任せられないやきもき感

事務員さんにお願いすればいいという話もある。ただ、私のような小さな事務所では、全てを任せるには限界があるし、相手によっては自分が直接対応しなければならない場面も多い。そういうときに限って返信がこない。画面の前でため息をつきながら、「これは任せられる案件じゃなかったな」と思う。自分が抱えすぎているのもわかっている。でも任せるって、結局は責任を移すことだから、それができない性分なのだ。

心のざわめきが止まらないとき、どうするか

返信を待ちながら、何も手につかない時間が一番つらい。その時間に何か意味があればいいのだが、ただ「待つ」だけというのは、精神的に一番ダメージが大きい。最近は、そんな時に少しでも気持ちをそらすために、意識してルーティンを入れるようにしている。例えばコピー機の掃除や、意味のない書類整理、ひたすらホチキスをカチャカチャする…。無意味なようで、意外と心が落ち着いたりするから不思議だ。

放っておくと仕事以外にも影響する

メールの返信を待っている間、つい集中力が途切れがちになる。それが続くと、次の案件への対応も遅れ始める。さらに悪いのは、そのイライラを他の人にぶつけてしまうことだ。私はそういうタイプではないと思っていたが、ある日、事務員さんに「ちょっと今、返事来なくてピリピリしてるんで…」と声を荒らげてしまった。すぐに謝ったけれど、その日一日、気まずさでさらにストレスが倍増した。

妄想で自滅しそうになったら試す3つの対処法

一つ目は、返信が来る前提で次の作業を少し進めてしまうこと。作業に集中しているうちに、返信への執着が薄れることがある。二つ目は、自分に「たぶん相手が体調崩してるだけ」と勝手な理由をつけること。事実かどうかはともかく、妄想に妄想で対抗するのだ。三つ目は、潔く15分だけ昼寝する。心のざわつきは、実は単なる睡眠不足かもしれない。意外とスッキリする。

「返信こない前提」で動くと少し楽になる

そもそも、相手からすぐに返信が来ることを前提に動くと、待たされたときの落差が大きくなる。だから最初から「返事は来ないかも」と思っておくと、意外と気が楽だ。心構え次第で、同じ出来事でも受け止め方が変わる。この歳になってようやく、「期待しないこと」も一つの処世術だと実感している。

独り身だからこそ、余計にざわつく

独身というのは、自由だし気楽な面もある。でも、孤独と隣り合わせでもある。家に帰っても話し相手がいない、仕事の不満も誰に言うでもなく飲み込む。そんなときに、返ってこない一通のメールが、妙に心をざわつかせるのだ。誰かに「そんなこと気にしすぎだよ」と笑い飛ばしてもらえたら、どれだけ楽か。けれど今の生活では、それがなかなか叶わない。

誰かに話せたら、それだけで救われるのに

たわいない不安を口に出せる相手がいるかどうか。それだけで、気持ちの回復スピードは大きく違う。私は昔、同じような悩みを持つ同業の知人と月1で愚痴飲み会をしていた。あれは本当に心のデトックスだった。コロナ以降、ぱったりとやらなくなったけど、今こそ復活させたい。誰か、地方で愚痴飲み会、一緒にやりませんか?

モテない、愚痴が多い、でも人間らしくていいじゃないか

自分で言うのもなんだが、私はモテないし、愚痴っぽいし、神経質だ。でもそんな人間でも、日々仕事をして、人に頼られて、役に立てることがある。完璧じゃなくていい。むしろ、不安やざわつきを抱えているからこそ、人の痛みに気づけるのかもしれない。そう思えるようになってから、ちょっとだけ、自分を許せるようになった気がする。

同じように返信を待つ誰かへ

もしあなたも、返信が来なくて心がざわついた経験があるなら、それは決してあなただけじゃない。立場や職業に関係なく、多くの人が同じような不安を抱えている。だから自分を責めすぎないでほしいし、「気にしすぎ」と自分の感情を否定しないでほしい。ざわつく心も、あなたの一部なのだから。

あなたのざわつきは、あなただけじゃない

画面の向こうにいる相手を気にするあまり、自分の感情を置き去りにしてしまうと、心が疲弊してしまう。だからこそ、時には「まぁいっか」と自分に優しくなる勇気も大切だ。私はまだその途中だが、この記事が、誰かのざわつく気持ちを少しでも軽くできたなら、それだけで今日のざわつきも、少しだけ報われる気がする。

司法書士である前に、一人の「人間」としての話

司法書士という肩書きがあっても、ただの一人の人間にすぎない。感情に振り回されてしまう日もあるし、小さなことに不安になってしまう夜もある。けれど、それでいいのだと思う。今日も返信が来ないまま、また新しいメールを送る。そしてまた、心がざわつく。その繰り返しの中でも、私たちは生きている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

愚痴ってばかりだけど、やっぱりこの仕事が好き

愚痴ってばかりだけど、やっぱりこの仕事が好き

missing value──司法書士という仕事に潜む「見えない努力」

司法書士の仕事には、「見えない努力」が山のようにあります。誰かに褒められるわけでもなく、表に出ることも少ないけれど、確実に誰かの人生の一部を支えている。たとえば、登記の不備を未然に防いだ瞬間。誰にも知られないけれど、もしそれを見逃していたら、後々大問題になるところでした。こうした「missing value(見えない価値)」が積み重なって、日々の業務が成り立っているのです。

誰も評価してくれない「当たり前」を積み重ねる日々

「きちんとしていて当たり前」。司法書士の仕事には、そんな空気があります。完璧に処理しても、感謝されることは少ない。でも、ひとたびミスがあれば「プロとしてありえない」と責められる。このギャップに、正直うんざりすることも多いです。僕の事務所では、事務員さんと二人三脚でやっていますが、正直ギリギリです。完璧を求められる割に、その努力を誰も見ていない。そんな現実と毎日向き合っています。

成功しても「当然」、ミスすれば「責任重大」

あるとき、急ぎの抵当権抹消登記を依頼されたことがありました。期限はタイト、関係者も多く、書類のチェックも神経を使う作業。なんとか無事に終えたのですが、お客様からは「間に合ってよかったですね」とだけ。正直、拍子抜けしました。逆に、過去に一度だけ申請書類の記載ミスがあった時は、怒りの電話が鳴り止まず…。この仕事は、ミスが目立つ一方で、成功は空気のようにスルーされることが本当に多いんです。

そんな世界で何を拠り所にするのか

結局のところ、「誰かが見てなくても、自分がやるしかない」という気持ちだけが支えです。真面目すぎるって言われることもありますが、そうでもしないとこの仕事は続けられない。自分の中で「これは自分の誇りだ」と思える瞬間を作るしかないんですよね。誰も気づかないなら、自分が気づいていればいい。そうやって、なんとかやってます。

空白の価値──「何も起こらなかったこと」の重み

「何も起こらなかった」=「問題が起きなかった」。それは、この仕事において実はとても価値あることです。けれど、問題が起きなかったという実績は、評価されにくいもの。だからこそ、「missing value」がどんどん溜まっていく。自分で自分の仕事を認めてあげないと、やってられません。

トラブルがない=仕事ができている証拠?

相続登記や会社設立など、司法書士が関わる手続きは、基本的に「スムーズに終わって当然」と思われがちです。でも、その「スムーズ」の裏には、緻密な確認や事前の根回しがあるんです。僕自身、何度も「何も起きなくてよかった」と胸をなでおろしてきました。でも、それは「何もしなかった」わけじゃなく、「いろいろやったからこそ」です。そこを理解してもらうのは、本当に難しい。

でも誰もそれに気づかない

問題が起きなければ、存在を感じないのが司法書士。これは職業的な宿命かもしれません。たまに「先生、今日もお疲れさまです」なんて言われると、それだけで泣きそうになります。実際、日々の積み重ねがあっての“無事完了”なんですけど、それを誰かに伝える機会も少ないし、共感してくれる人もほとんどいません。たまに愚痴りたくなるのも当然ですよね。

愚痴が止まらないのは、真面目にやってる証かもしれない

僕はよく事務員さんに「また愚痴ってますよ」と笑われます。でも、愚痴が出るのって、それだけ真剣に仕事に向き合ってる証拠じゃないですかね。手を抜いてたら、そもそも文句も出ないんです。イライラしたり、落ち込んだり、時にはキレそうになったり…。それも含めて、真面目に仕事してる証だと思いたいです。

やることが多すぎる、でも減らない

月末や年度末、相続関係が重なると本当に地獄です。相談対応、書類のチェック、提出、補正…。休む暇なんてありません。昼ごはんも立ち食い、夜はコンビニ飯。そんな毎日でも、仕事は容赦なくやってくる。予定通りに進んでる案件なんて一つもないし、急な追加依頼でスケジュールは崩壊寸前。そんなとき、誰かに「大丈夫?」って聞かれるだけでも救われます。

事務員ひとりの限界、自分の限界

うちは田舎の小さな事務所なので、僕と事務員さんだけで回してます。彼女が体調を崩した日なんて、もうパニックでした。電話も取れないし、書類も回らない。全部が止まる。そこでようやく、事務員さんの偉大さに気づくんですよね。自分ひとりでは何もできない。そんな状況で仕事を続けてると、いつか心が壊れるんじゃないかって思うこともあります。

それでも依頼者は待ってくれない

どんなにこっちが忙しくても、依頼者は待ってくれません。「早くしてください」「まだですか?」という声に追われる毎日。でも、その人にとっては一生に一度の手続き。だからこそ、僕も無下にはできない。結局、夜遅くまで残って書類を仕上げる自分がいる。そうしてまた、愚痴が増えていくんですよね。

人と比べても仕方ないとわかってるけど…

SNSなんて見るんじゃなかったと後悔する日もあります。東京の司法書士が「今日は午後からカフェで読書」なんて投稿してると、同じ職業とは思えない。自分は朝から晩まで書類と格闘してるのに。でも比べたって仕方ない。わかってるんですけど、つい気にしちゃう。地方の司法書士としての孤独を感じる瞬間でもあります。

都会の事務所が羨ましくなる瞬間

人手が多い、案件も豊富、報酬単価も高い。それが都会の事務所の強み。でも、こっちは何でも自分でやらなきゃいけない。営業も、登記も、トラブル対応も、掃除も。全方位で対応しなきゃいけないのが地方の現実です。でも、その分だけ鍛えられた気もします。ある意味、何でもできるスキルは身につきましたけど、できれば分業したいです…。

自分にしかできないことって、何なんだろう

ふと我に返ると、「じゃあ自分にしかできないことって何?」と考えてしまいます。正直、答えはまだ見つかってません。でも、依頼者の不安を和らげたり、複雑な手続きを一緒に乗り越えたり、そういう“寄り添い”の部分こそ、自分の価値なのかなとも思ったりします。見えない部分にこそ、司法書士としての本質があるのかもしれません。

好きで続けてるわけじゃない。でも辞めない理由

愚痴も多いし、ストレスも多い。報われることも少ない。でも、それでもこの仕事を辞められない理由があるんです。たぶん、それはどこかで「この仕事が好き」なんだと思います。うまく言えないけれど、自分の役割を果たしてるという実感だけが、日々のモチベーションになっているのかもしれません。

辞めたい気持ちは何度も湧く

正直、月に一度は「もう辞めたい」と思います。体力的にも精神的にも限界。でも、次の日にはまた机に向かっている。なぜか?多分、責任感だけじゃないんです。依頼者の「先生にお願いしてよかった」という言葉が、どこか頭に残ってる。たった一言でも、心の中のmissing valueが少しだけ埋まる気がするからです。

他人の人生の節目に関われる重み

相続、売買、会社設立。どれも人生の大きな節目です。そんな場面に立ち会わせてもらえるのが、この仕事のすごさです。責任も大きいけれど、やりがいもある。たとえば、おばあちゃんの相続手続きを終えて、ホッとした表情を見たとき、「ああ、この仕事やっててよかった」と思う瞬間があります。たったそれだけでも、続ける理由になるんです。

missing valueを埋めるのは、技術よりも「思い」

どれだけ書類が完璧でも、心がこもっていなければ意味がない。そんなふうに思うようになりました。相手の気持ちに寄り添いながら、見えない価値をちゃんと積み上げていく。愚痴りながらも、そんな仕事を続けていけたらいいなと思っています。missing valueを埋めるのは、やっぱり人の「思い」なんだと、そう感じています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。