「ただいま」に返ってくる言葉がない夜
仕事を終えて夜遅く事務所を閉め、コンビニで適当に買った弁当を片手に帰宅する。玄関を開けても、そこには誰もいない。照明のスイッチを入れる音だけが、自分の「ただいま」に応えるように響く。誰かがいるわけじゃない。むしろ、誰もいないことを確認してホッとする気持ちさえある。そのくせ、心のどこかでは「おかえり」と声をかけてもらいたいと思ってしまう。忙しさに紛れていたはずの孤独は、こういう夜にこっそり顔を出す。
仕事終わりの静けさが胸に刺さる
業務中はとにかく電話が鳴る。役所とのやりとり、銀行への確認、登記の締切——目まぐるしく過ぎる時間の中では、むしろ誰かと関わることが当たり前になる。だが、仕事が終わった瞬間、その喧騒がすべて止む。誰とも会話しない静寂の部屋は、まるで冷蔵庫の中のようにひんやりしていて、心を凍らせる。静かすぎて、自分が存在しているのかも疑わしくなるほどだ。「帰宅」とは本来、誰かに迎えられることだったんじゃないか。そんな当たり前を、ずっと忘れていたことに気づく。
テレビの音が「おかえり」の代わりだった
誰もいない部屋に戻ると、まずテレビのリモコンを探す癖がある。何か喋ってくれる人がほしい。ただそれだけだ。ニュース番組の声も、バラエティの笑い声も、決して自分に向けられたものじゃないとわかっていながら、それがあるだけで安心する。家が無音になると、自分の存在ごと消えてしまいそうだから。「おかえり」と言われることにどれだけ救われるのか、失ってみてようやく実感する。誰かの存在は、こんなにも日常を支えていたんだと、独りで知る夜。
司法書士という仕事に、誰かを迎える余裕はあるか
書類と人との間をひたすら行き来する日々。人の人生の節目に立ち会いながらも、自分の生活はどこか置いてけぼりだ。誰かを迎える余裕なんて、本当にあるのか。そんな疑問を、夜中のカップ麺をすすりながら考える。土日も電話が鳴るし、祝日も登記の期限に追われる。自分の時間も、自分の心のスペースも、気づけばすり減っている。誰かに「ただいま」と言われる前に、逃げ出したくなる気持ちさえある。
忙しいのに孤独という矛盾
日中は本当に忙しい。依頼人もいるし、登記申請もある。ミスがあれば信用問題にもつながるし、常に気が張っている。それなのに、心の中はぽっかりと空いている。笑顔で対応しているつもりでも、終わったあとにぐったりと疲れが押し寄せる。「人に会ってるのに寂しい」とは、贅沢な悩みだろうか。いや、それは司法書士という職業の特殊性なのかもしれない。人の人生に深く関わるのに、自分自身はその輪の外にいるような感覚がいつもつきまとう。
目の前の書類は黙って山になる
誰も文句を言わないから、自分で自分に仕事を詰め込んでしまう。登記の申請書類、契約書のドラフト、打ち合わせのメモ。すべてが黙ってそこにある。何も言わないからこそ、逃げ場がない。書類には「おかえり」と書いていないし、自分のことを待っていてはくれない。やって当たり前、終わって当然。そんな無言の圧力に押しつぶされそうになる夜がある。
電話の声はあっても、会話じゃない
「はい、◯◯司法書士事務所です」——何百回と繰り返してきたその声。話しているのは確かに「人」だけど、それは業務のための言葉であって、心の通った会話ではない。たまにちょっと雑談をすることもあるが、それはほんの一瞬で終わる。感情が動くことはほとんどない。ただの音のやりとり。電話を切ったあとの静けさが、逆に堪える。そうして「会話のようなもの」に包まれて一日が終わる。
優しさと愚痴は同居できるか
人にはよく「優しいですね」と言われる。でもそれが「恋愛対象」や「必要とされる人間」としての評価にはつながらないことを、もう知っている。優しいけど頼りない、優しいけど物足りない。そんな風に受け取られている気がしてならない。そして本当は、そんな「優しさ」の裏には山のような愚痴がある。誰にもぶつけられないから、こっそり夜に漏れる愚痴が、自分の本音だ。
「優しいですね」と言われるたびの虚しさ
学生時代からそうだった。「優しいね」と言われるたび、「ありがとう」と笑っていたけど、どこか空しかった。社会人になっても変わらない。事務員にも「先生は怒らないですね」と言われる。でもそれは、怒る気力がないだけなのかもしれない。優しさは時に、自分を守るための壁にもなる。「誰かの役に立ちたい」と思って始めた仕事なのに、気づけば自分の居場所がなくなっていた。
モテない優しさなんて、ただの都合のいい人
「優しい」と言われることが、嬉しいはずだった。でも、それだけで終わる関係に、何度も心がすり減った。結局、自分は「いてもいなくてもいい人」なんじゃないかと疑いたくなる。強くて引っ張ってくれるタイプじゃないとモテないのは、もう知っている。優しいだけじゃ、人生は変わらない。ましてや結婚なんて、遠い世界の話。モテない優しさは、自己満足でしかないと、自嘲するしかなかった。
つい愚痴が出るのは、誰かに聞いてほしいだけ
本当は、ただ誰かに聞いてほしいだけだった。「大変ですね」とか、「わかりますよ」と言ってもらえるだけでよかった。でもその「誰か」が、いない。事務員に話しても気を遣わせるだけだし、同業者に話せば弱みを見せることになる。だからこそ、誰にも言えず、夜の独り言になってしまう。「おかえり」さえあれば、こんなにも愚痴を抱えずにすんだのかもしれない。
「おかえり」がない暮らしに慣れたつもりだった
独身の生活に慣れたつもりでいた。でも、それは「慣れた」というより「諦めた」に近いのかもしれない。誰かを迎える準備をすることもなく、誰かに迎えられることもなく、ただ時間だけが過ぎていく。そんな生活に慣れたふりをしていた。でも、ふとした瞬間に、その空白が心をかき乱す。コンビニのレジ横のカップル、隣の家の明かり、それだけで、自分がどこにも帰れていない気持ちになる。
独身でいる理由は、もう自分でもわからない
最初は「仕事が忙しいから」という言い訳だった。次は「今はその時期じゃない」と自分に言い聞かせた。でも気づけば、言い訳の材料すらなくなっていた。もう、なぜ独身なのか、自分でも説明できない。誰かと暮らすことの不安より、誰かと出会うことの億劫さの方が勝ってしまった。そしてその結果、「おかえり」がない生活が当たり前になってしまった。
誰にも頼らずに生きていく覚悟のはずが
自立しているつもりだった。誰にも迷惑をかけずに、黙々と働き、静かに暮らす。それが「大人の男」だと思っていた。けれど、それは「一人でも平気」という強さではなく、「一人でも仕方ない」という弱さの裏返しだったのかもしれない。誰にも頼らない生き方は、実は「誰にも頼れない」孤独を受け入れることだったと、ようやく気づく。遅すぎる気づきに、また夜が静かに更けていく。
それでも、この仕事を続ける理由
それでも、司法書士の仕事をやめたいと思ったことはない。誰かの不安を取り除き、人生の節目に寄り添える仕事だと思っている。だから、どれだけ寂しくても、苦しくても、やめるという選択肢は浮かばない。ただ、心のどこかで、いつか誰かが「おかえり」と言ってくれる日を、待っているのかもしれない。
目の前の依頼人だけは、帰る場所を求めている
不動産登記、遺言書作成、相続相談——いずれも人生の「区切り」に関わる手続きだ。そのたびに、依頼人は「これで安心できる」と言ってくれる。その言葉を聞くたび、自分も誰かの「帰る場所」をつくっているのかもしれないと思う。自分には帰る場所がないと思っていたけれど、もしかしたら、誰かにとっての「おかえりなさい」を支える役割なのかもしれない。
誰かの「安心」を支える側として
自分には「おかえり」がなくても、誰かが安心して暮らせる手続きを支えている。その役割がある限り、自分には存在意義がある。目の前の依頼人にとって、自分が「話を聞いてくれる存在」でいられるなら、それでいい。自分のことは、あとまわしでいい。そう思える日は、少しだけ心が満たされる。
だから今日も、机に向かう
一日が終わり、事務所の明かりを消す頃には、また静かな夜が訪れる。「ただいま」と言う先も、「おかえり」と返ってくる人もいない。それでも、自分にできることを少しずつ重ねていく。机の上の書類と、依頼人の想いを結ぶこの仕事を、今日も明日も続けていく。その先に、もし誰かの「おかえり」があるのなら——それだけで、少しだけ救われる気がする。