飲みの席で真面目な話しかしない

飲みの席で真面目な話しかしない

なぜか場を白けさせてしまう

飲み会の席で「それってどう思う?」と話を振られても、なぜか自分は深刻な話題や法律論、仕事の哲学にばかり寄ってしまう。みんなが笑っている中、空気を読まずに一人だけ「最近の相続相談の傾向は…」なんて話してしまうのだ。場が凍るのがわかっているのに、やめられない。面白い話ができないことが、どこかコンプレックスになっている。

「堅いね」と言われ続けてきた人生

学生の頃からそうだった。合コンでも飲み会でも、気づけば真面目な話をしている。例えば友人が恋バナをしているとき、私は「その関係は依存じゃない?」とか言ってしまう。別に否定しているわけではないのに、そう言われると「いや、そういう意味じゃなくて…」と焦ってしまう。そのたびに「もっと軽く話せよ」と言われて、気まずくなる。自分の語り口や話題が、どうにも「重い」のだ。

学生時代からの癖は抜けない

大学では法学部。周りも堅い人が多く、それなりに真面目な話が飛び交う環境だった。それが心地よくて、いつの間にか「軽い話題」ができない大人になっていた。雑談力というのは、訓練で身につくものだと聞いたことがある。でも一度身につけた「真面目な議論スタイル」は、簡単に抜けない。気づけば、場をなごませるどころか引き締めてしまう存在になっている。

「空気を読めない」の正体

たぶん、自分が「空気を読めない」と言われるのは、悪意じゃない。むしろ、自分では盛り上げようとして頑張っているつもりだ。しかし、求められているのは「共感」や「笑い」であって、「考察」や「分析」じゃない。それをわかっていても、言葉が出てきた瞬間にはもう遅い。癖のようなものだから、自分で修正するのが難しい。

飲みの席が楽しめない理由

結局のところ、自分が飲み会を楽しめていないのだと思う。話す内容に気を遣いすぎて疲れるし、うまく笑いが取れないと自己嫌悪になる。楽しむどころか、反省会のようになってしまう。誰かと楽しくお酒を飲むことが、こんなにも難しいなんて思わなかった。

話題の選び方に迷う

会話のスタートはたいてい「最近どう?」から始まる。でもその「最近」が、私にとっては「案件の進捗」とか「裁判所の動き」だったりする。だから自然と、話が硬くなる。「最近ハマってるものある?」と聞かれても、答えに詰まる。読書も仕事に関係する専門書ばかりだし、趣味といえば昼に飲むプロテインぐらいだ。

「仕事の話以外に何がある?」という思考

平日は仕事。休日も、結局仕事のことを考えている。だから「仕事以外の話題で盛り上がる」ことが、自分の中では非日常になっている。友人が映画の話をしているときも、「それって判例的にどうなのかな」なんて余計なことを考えてしまう。世間話って、どうやってするんだっけ…?と自問することがよくある。

雑談が苦手という悩み

雑談って、ある種のスキルだと思う。人の話にうまく乗っかりながら、自分の話も少しずつ混ぜていく。それができないと、会話が一方通行になる。「へぇ」「そうなんだ」で終わってしまうか、「それはね…」と一方的に話し続けてしまうかの二択。どちらも、相手を疲れさせてしまう原因になっている。

つい語ってしまう仕事論

飲みの場で、相手が司法書士という仕事に少しでも興味を持ってくれると、ついスイッチが入ってしまう。「今の登記制度はこうでね」「相続放棄の件数が増えててさ」と、気づけば語りモード。誰もそこまで求めていないとわかっていながら、自分でも止まれないのが辛い。

自分では気づいていない熱量

話しているとき、自分の中では盛り上がっている。目も輝いていると思う。でも相手を見ると、スマホを見始めていたり、会話を切り上げようとしていたりする。そのたびに「やっちまったな」と後悔する。仕事に熱を持っていること自体は悪くないはずなのに、場をわきまえないその使い方に問題があるのだろう。

「真剣な話=悪」ではないけど

真面目な話をしてはいけないわけじゃない。でもタイミングと相手次第だということを、40代になってようやく痛感する。場の空気を感じて、軽く流すこと。自分の言いたいことよりも、相手の気分を優先すること。それができる人が「話し上手」と呼ばれるのだと思う。

共感されにくい話題選び

「あるある」で盛り上がることはあっても、「なるほどね~」で終わってしまうことが多いのが現実だ。共感って、「知識」じゃなくて「感情」に働きかけるもの。だから、自分のように常に正確性や事実にこだわって話すスタイルは、どうしても浮いてしまう。もっと感情に寄り添う話ができれば、少しは場の雰囲気も和らぐのかもしれない。

事務員との距離感にも影響する

うちの事務員とも、正直なところ距離が縮まっていない気がする。仕事上は問題ないけれど、雑談が盛り上がらない。飲みに誘ってもあまり乗り気じゃない様子を見て、「ああ、また真面目な話をされると思ってるんだろうな」と自己反省してしまう。

「飲みに誘っても返事が薄い」理由

一度、無理に誘ってしまったことがある。そのときの反応が今でも頭に残っている。「行けたら行きます」とだけ言って、結局来なかった。理由を聞くのも野暮だし、自分でも原因はわかっていた。「どうせまた仕事の愚痴を聞かされるんでしょ?」という心の声が聞こえた気がした。

部下も疲れる「真面目な上司」

上司として頼りにされたい気持ちはある。でもそれが「いつでも真面目で説教臭い」に繋がってしまうと、逆効果だ。冗談が通じず、雑談も広がらない。そんな人のそばに長くいたいと思うかと聞かれたら、自分でも答えに詰まる。緩さも大事なのだ。

会話にも「緩急」が必要だった

仕事の現場では厳しく、オフの場では緩く。そういう「緩急」が、コミュニケーションには必要なのだと、今さらながら思う。常に全力投球で話すのではなく、流すところは流す。突っ込むところは突っ込む。その使い分けができるようになったら、もう少し人間関係が楽になるのかもしれない。

司法書士という職業病?

結局のところ、これは職業病なのかもしれない。常に正確性を求められる仕事。間違いが許されない現場。そんな環境に長くいれば、どこかで「軽さ」を忘れてしまう。誰も求めていない正しさを、飲みの席でも発揮してしまうのだ。

常に正確性と真実を追求する癖

例えば、誰かが「登記って10分で終わるんでしょ?」と言ったとする。その瞬間に、「いや、それは違ってですね…」と訂正したくなる。でも、そんなこと誰も本気で思っているわけじゃない。ただの軽口だ。そこにいちいち真顔で返してしまうのが、自分の悪い癖だ。

お酒の場でもロジカルに話してしまう

酔っていても、頭の中では論理が先に走る。矛盾を見つけたら指摘したくなるし、根拠が曖昧な話には「それってどこのデータ?」と突っ込みたくなる。でも、それを言ってしまった時点で会話は終わる。お酒の席で大事なのは、正しさじゃなくて楽しさなのだ。

自分を緩める訓練が必要なのかも

最近は、あえて「どうでもいい話」をする練習をしている。たとえばコンビニのおにぎりの話とか、テレビのバラエティの話とか。うまく乗れないけれど、努力はしている。緩く話すことに意味があると、自分に言い聞かせながら。少しずつでも変われたら、きっと世界も少し違って見えるはずだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。