人付き合いがしんどくて、誰とも会いたくない日がある

人付き合いがしんどくて、誰とも会いたくない日がある

気づけば、人を避けるようになっていた

昔はもう少し、誰とでも笑顔で話せていた気がする。もちろん心の中では「気を遣うのって面倒くさいな」と思っていたけれど、それでも人と関わるのが嫌ではなかった。ところが年齢を重ねて、司法書士として日々の業務に追われるようになると、人と話すことそのものに疲れを感じるようになっていた。気づけば、電話が鳴ってもすぐには出ず、誰かと会う約束もどんどん後回しにしていた。

昔はもう少し、愛想よくしてたはずなんだけど

開業したばかりの頃、まだ右も左もわからなかったあの時期は、誰にでもペコペコしていた。業者にも依頼者にも、とにかく嫌われないようにと必死だった。でも、あの頃はそれが「自然」だった気がする。いまは違う。無理して笑うのがつらくなった。誰かの話に合わせてうなずくだけで、どっと疲れる。愛想笑いが引きつってるのが自分でもわかるようになった。

「人に気を遣う」の疲れが蓄積する日々

特にしんどいのは、「別に怒ってるわけじゃないけど、対応ミスを責めないといけない」みたいな場面だ。お客さんに対しても、相手のミスを指摘するたびに「角が立たないように」「言葉を選ばなきゃ」と頭をフル回転させる。それだけでヘトヘトになる。言いたいことも、言えずに飲み込む回数が増えるほど、心が擦り減っていくのを感じる。

司法書士という仕事の“人間関係”は、意外と濃い

士業って、一人で黙々と書類仕事してるイメージを持たれがちだけど、実際は結構、人間関係が濃い。電話対応、窓口説明、登記手続きの説明、他士業との連携……どこを切っても「人」が絡む。しかもその一つ一つが、失敗の許されない神経戦のようなコミュニケーションだったりする。

お客さんは銀行、法務局、士業仲間…

たとえば、銀行担当者とのやりとり。こちらの説明が不十分だったら案件が止まるし、逆に相手の不手際もこちらが気づかなければ損をする。法務局の担当官との関係も然り。相手の機嫌次第で対応が変わることもある。こうした「察する能力」と「我慢」が求められる対人関係が、思った以上にストレスになる。

「仕事の顔」と「本音の顔」のギャップに疲れる

仕事中は“いい人”を演じなきゃいけない。優しく、親切で、頼りになって、失礼のない対応をする司法書士像。だけど、内心では「もう放っておいてくれ」と思ってることもある。そのギャップがどんどん広がって、本音を誰にも見せられなくなっていく。演じ続けることに、心が耐えられなくなるときがある。

雑談すらも、しんどくなるときがある

ふと立ち寄った法務局や役所での雑談、「最近どうですか?」とか「忙しいですか?」なんて他愛のないやりとりが、とにかく面倒に感じる。相手に悪気がないのは分かってる。でも、その“軽さ”すら受け止める余裕がない。無理して話題を合わせようとする自分に、ますます疲れてしまう。

世間話ができない日は、無理にしないと決めた

あるときから「今日はもう雑談モードじゃない」と思った日は、最低限のやりとりで済ませるようにした。「無愛想だと思われても、無理するよりマシ」と開き直った。結果的に、それがラクになった。そもそも全員に好かれる必要なんてない。仕事をきっちりやれば、少々そっけなくてもそれでいいんじゃないかと。

「どうせ俺に興味なんかないでしょ」と思ってしまう

自分のことなんて誰も気にしていない、という卑屈な気持ちが顔を出す。飲み会に呼ばれなくても、「どうせ話し合わないし」と自分に言い聞かせる。でも本当は、少し寂しい。でもその寂しさを表に出すのも恥ずかしくて、結局また一人で帰る。

気を遣われるのも、なんだかつらい

自分が人に気を遣うのと同じくらい、相手から気を遣われるのもつらいときがある。「気を遣わなくていいですよ」って言いたいけど、そう言ったところで相手がリラックスするわけでもないし、むしろ気まずくなる。だから何も言わずにやり過ごすけど、なんだかモヤモヤする。

「気を遣われる=拒絶されてる」ように感じる

自分が「気を遣われる対象」になると、相手が一線を引いているように思えてしまう。もしかしたら好意でやってくれてるだけなのに、「腫れ物扱いされてるのか?」とひねくれた思考が浮かぶ。心のどこかで、もっと自然に付き合える関係を求めているのに、そうなれない自分に苛立つ。

だからといって“気楽な関係”も築けない

じゃあ誰となら気楽に話せるか?と考えると、これが思いつかない。家族とも疎遠、友人とも距離があいてしまった。唯一、事務員さんが適度な距離感で接してくれるのが救いだけど、それも職場内の関係。心の底から気を抜ける人間関係って、いまの自分にはほとんどない。

誰にも会わずに一日が終わる、それが心地いい日もある

正直に言えば、誰とも話さずに終わる日が一番ホッとすることもある。話しかけられない、気を遣わない、気配を消して書類だけ片づける日。そんな日を「さみしい」と感じるどころか「ありがたい」と感じている自分がいる。

静かな一日を望む自分を、肯定したい

人と接するのが苦手になったからといって、ダメなわけじゃない。そういう性格になったのも、年齢や経験の蓄積であって、ある意味“進化”かもしれない。無理に社交的にならなくても、黙々とこなす仕事も、十分に価値がある。

でも「これでいいのか」と不安になる夜もある

ただ、ふと夜になって、「このまま誰とも深く関われずに終わるのか」と不安になる瞬間がある。仕事はしてるけど、それ以外の人生が止まってるような気がして、胸が詰まる。気楽さと引き換えに、何かを失ってるんじゃないか、と。

それでも続けている、この仕事

いろいろ面倒くさいことばかりだけど、それでもこの仕事をやめようとは思わない。人が苦手になったとはいえ、誰かの困りごとに寄り添って、少しでも助けになれるなら、それでいい。自分にとって、この仕事はそんな“人とのつながり”の最後の砦かもしれない。

人が苦手でも、誰かの役に立ちたいという矛盾

誰とも話したくない日がある一方で、「ありがとう」と言われるとやっぱり嬉しい。自分がやったことが誰かの助けになったとき、救われるのは実はこっちのほうだ。人が苦手なのに、人の役に立ちたい。矛盾だけど、それが本音なんだと思う。

疲れながらも現場に戻る自分を、少し認めてみる

だから、今日もまた出勤して、嫌々ながらも人と話す。疲れてるけど、逃げずに向き合っている。それだけでも、自分を褒めてあげたいと思う。完璧じゃなくても、逃げ出したくなる日があっても、それでも机に向かっている。それってすごいことだと思う。

“孤独”と“自由”のはざまで

独身で司法書士、地方で一人仕事。世間的にはちょっと地味で、寂しそうに見えるかもしれない。実際、寂しいこともある。でも一方で、自分のペースで働けて、誰にも縛られずに生きている。それは自由でもある。

独身司法書士という肩書に、時々胸がつまる

同級生のSNSを見ていると、家族の話や旅行の写真が目に入る。「自分にはそういう人生、なかったな」と思う瞬間、少し胸が苦しくなる。司法書士という肩書だけじゃ、埋まらない何かがあるのかもしれない。

でも、自由に生きられているとも思う

その代わり、自分の好きな時間に働いて、休んで、食べたいものを食べている。誰にも文句を言われずに生きていけるこの生活は、ある意味とても贅沢だと思う。寂しさと自由は、表裏一体。どちらを選んでも、得るものと失うものはあるのだ。

誰かに「わかる」と言ってもらえるだけで、少し救われる

この文章を書きながら、「もしかしたら誰か一人でも共感してくれる人がいればいい」と思っている。同じように人付き合いに疲れて、静かに生きていたいと思ってる誰かに届けば、それで十分だ。

この文章が、同じような気持ちの誰かに届けばいい

大げさな共感や励ましはいらない。ただ「わかる」と言ってくれるだけで、救われる気がする。そういう静かなつながりを、これからも大事にしていきたい。

人を避けても、心は誰かを求めているかもしれない

誰とも会いたくない日がある。それでも、完全に孤独になりたいわけじゃない。心のどこかで、やっぱり誰かに理解されたいと思ってる。その微かな気持ちが、また明日も人と向き合う力になるのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。