「付き合っても楽しそうじゃない」と言われた

「付き合っても楽しそうじゃない」と言われた

「付き合っても楽しそうじゃない」と言われた夜に

正直な話、心にグサッときた。いつも通りの業務を終えた帰り道、久しぶりに会った知人との会話でふいに言われたこの一言。「お前、付き合っても楽しそうじゃないよな」。冗談っぽい口調だったが、僕には冗談に聞こえなかった。司法書士という仕事柄、どうしても顔が硬くなりがちだし、笑顔も減っている。忙しい毎日、感情を挟む余裕なんてほとんどない。でも、だからって“楽しそうじゃない人”になってしまってたのかと、改めて自分を振り返るきっかけになった。

笑えない冗談みたいな現実

昔はもっと、冗談を交わすのが得意だった気がする。だけど今は、冗談すら空回りする。相手の目が笑っていないのが、会話の中で分かってしまう。地元の飲み会に顔を出せば「また仕事か」とからかわれ、異性と話せば「なんか疲れてる?」と言われる始末。いや、確かに疲れている。けれど、それを顔に出さないのが大人だと思っていた。でも、その“我慢”がいつの間にか“近寄りがたさ”になっていたのかもしれない。

仕事に追われる日々の中で人間味が消えていく

僕ら司法書士は、毎日誰かのトラブルや不安を受け止める役割だ。相続、登記、債務整理……人生の節目や困難な局面に立ち会うことが多い。だから、常に冷静であることを求められるし、感情を表に出すのは「仕事ができない証拠」とさえ感じていた。気づけば、電話一本で笑顔を作るのが億劫になり、面談でも必要最低限のやり取りしかしない。そんな日々の中で、少しずつ人間味を失っていったのだと思う。

「楽しいって何?」という問いに詰まった

「最近、楽しいことあった?」と聞かれて、答えに詰まる自分がいた。楽しいことって何だっけ。最後に心の底から笑ったのはいつだっただろう。飲み会も億劫、旅行は日程が合わず、趣味らしい趣味も持っていない。唯一の楽しみはスーパーの弁当コーナーで割引商品を探す時間かもしれない。そんな自分に対して「付き合っても楽しそうじゃない」と言われても、否定できない自覚がある。それが一番つらい。

恋愛という非日常が遠い存在になる

恋愛って、日常の忙しさから少し離れて、誰かと非日常を分かち合うことだと思う。でも今の僕に、そんな余白はない。誰かと会う時間をつくることも、メッセージを返す気力も、残業の後にはもう残っていない。結果として「誘いにくい人」「面白くなさそうな人」になってしまう。恋愛は気持ちとタイミング、そして余裕が必要だ。でもその三つが、今の僕にはすべて足りていない。

電話もLINEも返す気力がない

「ごめん、あとで返信するね」と言ったまま、その“あとで”が永遠に来ない。メッセージが溜まっていくのを見ながらも、返す気力が出てこない。どこかで「どうせ会えないし」という諦めもあるし、「変に期待させても申し訳ない」という気遣いもある。だけど、そういう姿勢こそが“楽しくなさそう”という印象を与えてしまうのだと、ようやく気づいた。優しさと距離の取り方を履き違えていたのかもしれない。

司法書士としての責任と孤独

この仕事をしていると、人の人生の重い場面に立ち会うことが多い。責任は重いが、その分やりがいもある。けれど、感情を出しすぎれば信頼を損なうリスクがあるため、自然と自分を抑える癖がついていく。そのうちに“本音を出せる場所”がなくなっていき、孤独に強くなったように見えて、実は鈍感になっていく。そうして気づけば、自分の感情を見失っている。

毎日抱える“誰かの不安”を処理する仕事

登記の依頼ひとつにしても、その背景には誰かの人生の変化がある。家を買った、親が亡くなった、離婚した……そういう節目に寄り添う仕事だから、常に真面目で、冷静でいなくてはならない。だけど、それが続くと自分の感情を置き去りにする癖がつく。「あなたはどうしたいですか?」と尋ねる立場なのに、自分にはその問いを向けてこなかった。

相談者の涙には共感できるけど、自分の感情は置き去り

依頼者が泣くとき、自分も心が動く。でもそこで涙を見せたら“プロじゃない”と、心のどこかで制御してしまう。だから、依頼者には共感しても、自分自身の感情はいつも後回しになる。そして、その積み重ねが「表情の乏しさ」や「楽しそうじゃない雰囲気」を生んでいたんだと、今なら分かる。自分の感情を認めないまま、人に好かれようとしても、それは難しい。

孤独に強くなりすぎてしまった代償

孤独は、慣れてしまえば楽でもある。誰にも気を遣わずに済むし、自分のペースで生きられる。でも、それが“癖”になると、誰かと一緒にいることが面倒になってくる。気づけば、笑顔を作る練習すらしていない。そんな自分を他人から見れば「付き合っても楽しそうじゃない」と思われても不思議じゃない。これは言われて気づくしかなかった真実だった。

気づいたら「楽しい」から一番遠くにいた

本当に楽しい人って、自分が楽しもうとしてる人なんだと思う。仕事が大変でも、忙しくても、ちょっとした笑いを見つけられる人。でも僕は「楽しまないこと」が正しいと思い込んでいた節がある。だからこそ、気づけば「楽しい」という感情から一番遠い場所に立っていた。人生って、真面目なだけではどうにもならない。笑いと余白が必要だ。

自分の人生に「楽しさ」をどう取り戻すか

じゃあどうすれば“楽しくなさそう”じゃなくなるのか? 急には無理でも、小さな工夫からなら始められる。例えば、コンビニで普段買わないスイーツを買ってみるとか、通勤途中に空を見上げてみるとか。そんな些細なことでも、「楽しもう」と意識することが第一歩になる気がする。自分の人生を“楽しくなさそう”にしていたのは、自分自身だったかもしれないのだから。

笑うためには余白が必要だと気づいた

予定がびっしり詰まったスケジュール帳に、「笑う時間」は入っていなかった。余白がなければ、人と向き合う余裕もなくなる。まずは意識して“予定を入れない時間”を確保するようにした。夕方の30分、何もしない。ただラジオを聴く。それだけで心が少し柔らかくなるのを感じた。笑うって、そういう“余白”からしか生まれないのかもしれない。

まずは“楽しくなさそうな顔”をやめてみる

表情筋って、使わないと本当に動かなくなる。だから最近は、鏡の前で笑顔の練習をしている。誰にも見られていないからこそ、素直に笑ってみる。最初は引きつってたけど、少しずつ自然になってきた気がする。笑顔が増えれば、「楽しそう」に見えるかもしれない。そして、それが本当に楽しい時間を呼び込むきっかけになるかもしれない。

誰かと関わることを避けない勇気

面倒くささや疲れから、人と距離を取っていた。でも、誰かと関わることでしか得られない感情もある。無理に大勢と関わらなくてもいい。一人でもいいから、素直に話せる人を大切にする。その勇気があれば、「楽しそうな人」への第一歩が踏み出せる気がする。司法書士という仕事をしていても、人としての魅力は取り戻せる。少なくとも、そう信じてみたい。

「仕事だけの自分」から抜け出す小さな試み

司法書士としての肩書きを一旦置いて、自分という人間に戻る時間を持つ。それは趣味でも、散歩でも、読書でもいい。仕事の実績ではなく、笑った回数を数える日があってもいい。そうやって、“楽しくなさそう”な自分を少しずつ書き換えていく。それが、人生の後半戦をもっと豊かにする鍵なんじゃないかと思うようになった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。