「先生」と呼ばれるたび、僕は少しずつ壊れていく
「先生」という言葉に感じる違和感
司法書士という職業を選んだ以上、「先生」と呼ばれるのはある種の通過儀礼のようなものだと受け止めていました。実際、最初の頃はその響きに少しだけ誇らしい気持ちもあったんです。でも、月日が経つにつれ、その呼び名がだんだんと自分の本質から遠ざかっていくような、奇妙なずれを感じ始めました。感謝や敬意を込めて言われているのはわかっている。なのに、どこか自分が“役割”として扱われているような気持ちになるんです。たとえばコンビニで名前を呼ばれるときの方が、よほど自分自身でいられるような気がする。それはちょっとしたことだけれど、確実に心のどこかをすり減らしていきました。
感謝の言葉のはずなのに、なぜか胸がざわつく
「先生、ありがとうございました」「やっぱり先生にお願いして良かったです」。そう言われるたびに、自分の存在が誰かの安心材料になったことは嬉しい。でもその直後、必ずと言っていいほど、胸がざわつくんです。何かを演じていたような、仮面をかぶっていたような気持ちが残る。依頼者との関係が、僕という個人とではなく「先生」という人格とのやりとりでしかなかったような錯覚に陥るんです。感謝されるのがつらいなんて、贅沢だと思われるかもしれません。でも、「あなた自身に頼んでよかった」と言われるのと、「先生に頼んでよかった」と言われるのでは、意味がまったく違うんです。
「すごいですね」と言われても、心は晴れない
ときどき、飲み会や地域の集まりで職業を聞かれて、「司法書士なんですね、すごい!」と言われることがあります。でも、その言葉を聞くたびに、どこかで白々しい気持ちになってしまう。「すごい」と言われることに慣れていないわけじゃないけど、心の奥では「いや、ただ日々必死で書類と格闘してるだけです」と言いたくなる。僕の仕事は派手じゃないし、ましてや「すごい」と呼ばれるようなものでもない。なのに、その一言で勝手に“立派な人”に仕立てられてしまう。そのズレが、自分でも処理しきれないまま溜まっていくんです。
褒め言葉の奥に潜む“距離”
褒め言葉の裏には、しばしば“自分とは違う世界の人”という距離感が含まれているように思います。「先生」という呼び名もそうです。それを口にすることで、相手は自分と僕との間に無意識の線を引いている。そして僕も、それに応えるように「先生」として振る舞ってしまう。どんどん、本当の自分との距離が開いていくような気がするんです。「近づかないでくれ」と言われているような寂しさが、そこには確かにあるんです。
初めて「先生」と呼ばれた日のことを覚えている
忘れもしない、初めての登記が無事に終わって、依頼者から「ありがとうございました、先生」と言われた日。心の底から嬉しかった。資格を取って、努力が実ったような気がして、やっと社会の役に立てたと感じました。でも、その感覚はあっという間に変わっていったんです。「先生」と呼ばれることが常態化する中で、自分がただの歯車になっていくような感覚に変わっていった。嬉しさの裏に、重たさが静かに忍び寄ってきていたのです。
司法書士になって最初に味わった誇らしさ
司法書士試験に合格したときは、本当に嬉しかったです。何度も落ちて、勉強して、ようやく掴んだ資格。親も喜んでくれて、周囲の目も変わりました。最初のうちは「先生」と呼ばれるのが誇らしくもありました。「自分もやっとここまで来たんだ」と思えたから。でもそれは、あくまで“スタートのご褒美”だったのかもしれません。
でも、それはすぐに“重さ”に変わった
肩書が「自分」を追い越していったように感じたのは、そのほんの数ヶ月後でした。責任も増え、期待も膨らみ、少しでも失敗すれば「先生なのに」と言われる。「人間なのに」と言ってくれる人は、誰もいない。その瞬間、「先生」という言葉が、まるで首にぶら下がった重たい名札のように感じられるようになりました。
「先生」であることに疲れてしまう日々
名刺に書かれた肩書きや、事務所の看板の文字を見るたびに、自分の中で少しずつ違和感が広がっていくのを感じます。もちろん仕事は嫌いじゃない。だけど「先生」としての自分を求められるあまり、ふと“自分らしさ”が何だったのか、わからなくなる瞬間があるんです。「先生、先生」と呼ばれ続ける日々の中で、少しずつ心の輪郭がぼやけていくような感覚に襲われることがあります。
いつのまにか「自分」より「役割」が優先される
僕という人間が、どんどん「司法書士」という役割に浸食されていく。そんな感覚を抱くことが増えました。何気ない会話でも、どこか“先生としてどう答えるべきか”を意識してしまうんです。笑い方ひとつ、言葉遣いひとつに、自分を見失ってしまう。「素の自分」はもう後ろに引っ込んでしまって、出る幕がない。役割としての“自分”ばかりが前面に出てしまって、心が疲れてしまうんです。
プライベートの会話すらも、どこかよそよそしい
仕事帰りに立ち寄る居酒屋で、常連さんと話していても、どこか線が引かれている気がします。「先生はやっぱり話し方が違うね」なんて言われると、一気に会話が冷めてしまう。普通の男として話したいだけなのに、肩書きがついて回る。自分から外したくても、相手が勝手につけてくる「先生」という仮面。いつになったら、それを外しても許されるんだろうと考える夜もあります。
結婚できない理由のひとつかもしれない
恋愛の話なんてほとんどしなくなったけれど、思い返すと、どの出会いにも“先生”が付きまとっていたように思います。「先生ってモテそう」「先生なら安心」――そんな言葉をもらっても、心はどこか冷めていた。自分自身を見てくれていない気がして、距離を詰めることができなかったんです。肩書きが邪魔をするなんて、贅沢な悩みに思えるかもしれません。でも、本気で一人の男として見られたいと思ったことが、何度あったか。
事務員との距離感にも表れる“ズレ”
事務員さんとは仕事のパートナーであり、時には唯一の味方でもあります。でも、やっぱり「先生」という壁がある。もっと気楽に話せたらいいのにと思うけど、お互いの役割がそれを許さない。僕が気を抜けば、向こうは気を遣う。向こうが気を抜けば、僕が“ちゃんとしなきゃ”と気を張る。そのバランスが、なかなかうまく取れないんです。
本当はもっとフラットに話したいのに
雑談の中で笑い合いたいと思っても、どこかかしこまった空気が流れることがあります。僕の性格の問題なのか、それとも立場がそうさせているのか。とにかく、“肩書き抜きの自分”として接することが難しい。相手も悪くないし、僕も悪くない。ただ、その「ズレ」が埋まらないまま、積み重なっていくのがつらい。
「先生は大変ですね」と言われるたびに孤独になる
「先生って、大変ですよね」「責任重いですよね」――そう言われると、なぜか余計に孤独を感じてしまいます。気遣いなのはわかってる。でも、そこに「私にはわかりませんけど」というニュアンスがある気がして、ますます一人きりになったような気がするんです。本当は「私も大変です」と言い合えるような関係が、羨ましくて仕方ない。