「向いてないかも」と思った夜、自分を責めるのはもうやめたい

「向いてないかも」と思った夜、自分を責めるのはもうやめたい

「向いてないかも」と思った夜、自分を責めるのはもうやめたい

朝からため息。今日も「向いてない」と思ってしまう

目が覚めて最初に思うのが「今日はうまくいくだろうか」ではなく「今日もまた何か失敗するんじゃないか」という不安な予感だったりする。出勤前の台所で、パンを焼きながら溜め息が出る朝。司法書士として独立して10年以上経つけれど、今でも「自分はこの仕事に向いてないかもしれない」と思う瞬間がある。たぶん、誰にも言えないだけで、そう感じる人は多いんじゃないか。

書類の山と、見えない「正解」との戦い

書類の整理をしていると、どこかで不備が見つかったり、依頼者からの確認の電話があったりして、気持ちがピリピリしてしまう。登記の内容に少しでも齟齬があれば、依頼者の信頼を失いかねない。それが怖くて、慎重にやっているはずなのに、やればやるほどミスが出るような気がしてくる。完璧を目指すことが、逆に自分を苦しめているのかもしれない。

細かいミスに自分でうんざり

ちょっとした記載ミスや提出期限の勘違い。取り返しがつかないほどの大問題ではないのに、自分の中では「ダメな奴」というレッテルが貼られてしまう。誰かが笑って流してくれたとしても、自分の中では何度もリピート再生されてしまうのだ。その自己反省のループに、また疲れていく。

「なんでこんな仕事選んだんだろう」と思う日もある

昔、法学部を出たときは正義感とか、資格を持って食べていくという堅実な理由だった。それが今では、登記の不備や、相続人探しのストレスに押し潰されそうになって、「こんな仕事、誰が好き好んでやるんだろう」なんて思う日もある。でも、結局はまた机に向かってしまう。

それでも辞めなかった理由を思い出す瞬間

そんなある日、昔の依頼者からの年賀状が出てきた。「あのときは本当にありがとうございました」って、短い手書きのメッセージ。それを読んだ瞬間、自分のしたことが誰かの人生にちゃんと意味を持っていたんだと、少しだけ報われた気がした。その感覚を信じたくて、また続けてしまうのだ。

「向いてない」という言葉にすがってしまう時

「向いてない」という言葉は、逃げの言葉のようでいて、実は自分を守るための防衛本能なのかもしれない。できない自分を認めることが怖くて、それを「向いてない」の一言で片づけてしまう。言い訳にしているのか、それとも本音なのか、その区別もつかなくなってくる。

逃げなのか、本音なのか、自分でもわからない

たとえば、依頼者対応でうまく言葉が出てこなかったとき。「こんなコミュ力じゃ向いてないよな」と落ち込む。でも、それって本当に向き不向きの問題なのか? もしかしたら、たまたま体調が悪かっただけかもしれないし、相手との相性の問題だったかもしれない。全部を自分の適性のせいにしてしまう癖がついているだけなのかもしれない。

「向いてない」に名前をつけてみると気づくこと

「向いてない」と思ったとき、自分の中にある具体的な感情を言葉にしてみる。「怖い」「疲れた」「誰かに頼りたい」「責められたくない」。そうやって整理していくと、「向いてない」の正体が、ただの一時的な不安や過労だったりすることもある。それに名前をつけることで、自分を少しだけ客観視できるようになる。

比べる相手が多すぎる問題

SNSを開けば、立派な実績や仕事が順調そうな同業者が目に入る。誰もが成功しているように見える中で、自分だけが取り残されている気分になる。そういう情報を浴びたあとに「向いてない」と思えば、それはもう負け戦のような気持ちになる。比べる必要なんてないと頭ではわかっていても、心がついていかない。

「あの人はすごい」は思い込みかもしれない

実際に会ってみると、「SNSで見るより普通の人だな」と感じることがある。それはきっと、自分が勝手にすごい人だと決めつけていたからだ。人のすごさなんて、表面だけではわからない。だから、自分を責める材料に他人を使うのは、もうやめたいと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。