「また明日」が重たく感じる夜

「また明日」が重たく感じる夜

「また明日」が心にひっかかる理由

夕方、事務所の時計が18時を回ったころ、私はふと「また明日」と独りごとのように呟くことがある。その言葉に返事があるわけでもなく、誰かと約束をしているわけでもない。ただ、それが終業の合図のような習慣になっているだけなのだ。でも、そんな「また明日」がふと重たく感じる夜がある。明日も同じような書類の山と、孤独と、気を使う電話対応が待っている。その現実を意識した瞬間、何気ない言葉が、妙に重くのしかかる。

言葉の軽さが重たくなる瞬間

本来、「また明日」は希望を含んだ言葉だと思う。「明日も会おうね」「また元気でいようね」。でも、それが義務に聞こえてしまうことがあるのだ。自分で自分に言い聞かせる「明日も頑張らなきゃ」というプレッシャーのように。司法書士という職業柄、常に締め切りと戦い、ミスの許されない書類に向き合い続けていると、気軽な言葉ですらプレッシャーになってしまう。

形式的な挨拶がむなしく感じる夜

かつて勤務していた法人事務所では、毎日誰かと「お疲れ様です」「また明日」と交わしていた。今は独立して、小さな事務所を一人で回している。雇っている事務員さんとは最低限の会話のみで、深い交流はない。だからこそ、誰に向けるわけでもない「また明日」は、むなしい響きだけを残す。

「明日」なんて来なくていいと思ったことはあるか

正直な話、何度か思ったことがある。「明日なんて来なくていい」と。朝が来ることが怖くなるくらい、やらなきゃいけないことが山積していて、それなのに全然心が追いつかない日。依頼者に迷惑をかけるわけにはいかない、そう自分に言い聞かせて踏ん張るけれど、その負荷は決して軽くはない。誰にも言えないけれど、そんな夜もある。

仕事の区切りがつかない日常

仕事を終える、という感覚がどんどん曖昧になっている。登記申請の締め切り、相続の相談、急ぎの書類確認。ひとつひとつ終わらせても、次から次へと別の案件が舞い込む。しかも、クライアントは待ってはくれない。事務所に一人でいる時間が長くなると、仕事と生活の境目すら曖昧になっていく。

終わりが見えない書類の山

ある日の夜、書類の山を目の前にして思わずため息が出た。「終わらんなぁ」と。たった一枚の申請書でも、間違えば大問題になる。それを確認するために、時間と神経を使う。しかも、毎日この山は減るどころか増えていく一方。こうなると、「明日も頑張ろう」なんて前向きな気持ちは持てない。

明日もその続き、という現実の重さ

「また明日」には、続きがあるという前提がある。でもその続きが「やりたくないこと」の連続だったとしたら?明日を迎えること自体が重たくなる。終わらない仕事に、自分が潰れてしまうんじゃないかと思う瞬間もある。寝ても覚めても仕事。そんな生活の中では、「また明日」は休息ではなく、継続の合図になってしまう。

独り言のような「また明日」

「また明日」と口にしたあと、誰からも返事がない静けさが、余計に胸に響く。人と接する仕事をしているはずなのに、自分自身の生活はどこか無人島にいるような感覚になることがある。これは独立してからずっと抱えている感情だ。

帰り際に言う相手がいない

昔は事務所を出るとき、同僚と「じゃあ、また明日」と軽く言い合った。それが小さな安心感だったのだろう。いま、私は仕事を終えても一人。事務員さんは先に帰っていて、私は施錠をして、無言で車に乗る。誰かに向かって言うわけでもない「また明日」が、車内にぽつんと響く。

事務員との会話も事務的で

事務員さんとは悪い関係ではない。でも、必要以上の会話はほとんどない。業務連絡、資料の確認、スケジュールの伝達。それだけだ。自分の心の中を打ち明けるような空気ではない。そもそも私自身、誰かに頼るのが下手くそだという自覚がある。

独身司法書士の孤独なルーティン

週末も基本的には仕事。誰かと飲みに行くことも少なくなった。気がつけば何年も恋愛らしいものもしていないし、誰かと真面目に将来の話をすることもない。孤独が日常になると、それに慣れてしまう反面、ふとした瞬間に空虚さが襲ってくる。「また明日」と言っても、それが誰かと共有されない世界は、とても寒い。

画面越しのやりとりでは埋まらない

業務の多くがデジタル化され、メールやチャットでやりとりすることが増えた。でも、どんなに便利になっても、そこに心はなかなか宿らない。絵文字や定型文で飾られた文章の奥に、温度が感じられないのだ。誰かと笑い合いながら交わす「また明日」とは、まるで別物だ。

メールとチャットに紛れる「また明日」

「明日までに確認します」「明日もう一度連絡します」――こうした文面は日々やり取りしている。でもそれは業務の一環であって、誰かと気持ちを通わせる言葉ではない。「また明日ですね」と誰かに自然と言える関係は、いまの私には少し遠い。

誰かと共有できない重たさ

悩みや疲れは、人に話すことで少し軽くなる。でも、司法書士という立場上、業務上の話は外に出せないことが多い。秘密保持や責任の重さがある中で、感情のガス抜きをする場所が見つからないまま、ただ積もっていく。

悩みを打ち明ける相手がいない

愚痴をこぼす相手もいない。たまに同業の知人と話しても、結局「お互い頑張るしかないな」で終わる。愚痴というよりも、傷をなめ合う感じに近い。そんな会話が続くと、逆に「言っても無駄だな」という気持ちになる。

「疲れた」のひと言で済ませてしまう関係

本当は「疲れた」だけじゃないのだ。イライラも、不安も、孤独もある。でも、言葉にするのが億劫になるときがある。誰かに話すと余計に疲れてしまいそうで。だからこそ、表面的な「疲れた」だけを繰り返す。それ以上は踏み込めないし、踏み込ませたくない。

弱音を吐く場所がないという現実

本音を言えば、ただ誰かに「大変だね」と言ってもらいたい日がある。でもそんな相手がいない。SNSも続かず、友達とも疎遠になった今、自分の弱音を吐く場所がない。そうなると、心にたまるのは愚痴でも悲しみでもなく、無言の重さなのだ。

それでも明日を迎えるしかない理由

「また明日」が重たいと感じても、それでも明日は来る。誰かが待っている。自分を頼ってくれる依頼者がいて、その信頼を裏切りたくない気持ちがある。それだけが、なんとか自分を立たせている理由になっている。

依頼者が待っているという責任

ある日、電話の向こうから「先生、頼りにしてますよ」と言われた。その瞬間、自分の肩にずしりと重みが乗ったような気がした。責任という名の重み。でも、それが自分を支えているのもまた事実。期待されることが、ぎりぎりのモチベーションになっている。

逃げたくても逃げられない日常

毎朝、布団から出るのが億劫になる。でも、逃げたくても逃げられない。自分しかやれる人がいない仕事。誰かが代わりにやってくれるわけではない。だから立ち上がるしかない。そうやって歯を食いしばって今日も事務所へ向かう。

自分の存在意義を探す夜

「このままでいいのか」と自問する夜がある。でも、考え続けても明確な答えは出ない。ただ、誰かにとって必要な存在でいられるのなら、それだけで少しは救われる。「また明日」と自分に言い聞かせながら、今日も静かに灯りを消す。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。