誰かの「最後」に触れるたびに、自分の終わりも思い浮かぶ
司法書士として相続の手続きをしていると、当然ながら亡くなった方の戸籍や家族構成、財産状況など、人生の最後に関わる情報に日々触れることになる。最初の頃は淡々と処理していたものの、年齢を重ねるにつれ、ふと「自分のときはどうなるのか」と考える瞬間が増えた。誰かの人生の終着点を整える仕事の中で、自分の老後の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくるのだ。
相続登記の書類に向き合いながらふと感じること
ある日、書類の山に埋もれて作業をしていたとき、ふと手が止まった。依頼人のお父様が亡くなり、その方の名義の土地を長男に移す手続き。生年月日と死亡日、婚姻歴と子どもの人数。たった数行の情報だが、それは人生の縮図だ。手続きを終えてほっとした依頼人の笑顔を見ながら、「じゃあ自分の戸籍を誰がたどって、誰が処理するんだろう」と、答えのない問いが浮かんだ。
他人の家族の歴史を整理する中で見える「自分の孤独」
仕事をしていると、血縁や家族関係が複雑な案件にもよく出くわす。兄弟と絶縁していた、子どもと疎遠だった、内縁の妻がいた…人の家族の物語にはドラマが詰まっている。けれど、自分にはその“ドラマ”自体が存在しないことに気づく瞬間がある。ただひとりで、役場に戸籍を取りに行ってくれる人がいるのか、遺産分割で集まる親族もいないかもしれない。それに気づくたび、妙な空虚感が襲ってくる。
封筒の宛名に書かれる名字に、親しみと虚しさが同時に湧く
相続の手続きで郵送する封筒には、故人と同じ名字の方の宛名を書くことが多い。そんなとき、自分と同じ名字が並ぶと、なぜか胸がざわつく。親しみを覚える反面、自分の名字はここで終わるのかと思うと、ほんのりと虚しさも混じる。「継ぐ人がいない」ということが、これほど静かに心を締めつけるものかと知ったのは、この仕事を始めてからだった。
「長男が遠方にいて〜」の話を聞きながら思う自分の行く末
相続の相談に来られる方がよく話す。「うちの長男が遠方にいて、なかなか連絡が取れなくて…」。そんな話を聞くたびに、「それでも手続きしてくれるだけありがたいじゃないか」と心の中で思ってしまう。自分に万が一があったとき、手続きを頼める家族がいないというのは、思った以上に心細い現実だ。
誰が自分の手続きをしてくれるのかと問いかける夜
夜、ふと事務所に一人残って仕事をしていると、「自分の死後、誰がこの机を片付けてくれるのか」と考えることがある。遺言書を公正証書で作っておくべきか、信頼できる士業の仲間に何かを託しておくべきか。けれど、それすらも「頼む相手がいない」となると、すべてが途方に暮れてしまう。人の手続きは回すのに、自分の老後は足踏みのままだ。
老後を考えても、何をすればいいのかわからない
年金、保険、終活…情報はいくらでもある。でも「じゃあ何からやれば安心なのか」となると、どこか現実味がない。おひとり様である自分には、既存の“モデルケース”が当てはまらない気もする。気がつけば、「まあ、なんとかなるだろう」と、先送りにする自分がいる。でも心のどこかではわかっている。なんとかならない日が、いつか必ず来るのだと。
仕事はある。けれど心は枯れていく
ありがたいことに、仕事はある。紹介もあるし、リピーターもいる。忙しい毎日。でも、どれだけ案件をこなしても、どこか乾いた気持ちが拭えない。感謝の言葉をもらっても、手応えがない。もしかしたら、心のどこかが枯れてきているのかもしれない。水やりを忘れた植物のように、気づかぬうちに。
「おかげさまで助かりました」と言われてもうれしくない日
「おかげさまでスムーズに済みました」「本当に助かりました」。そう言われるたび、昔はもっと心があたたかくなっていた。今でも表情には出すけれど、どこか遠くの声のように聞こえてくる日がある。繰り返しのような毎日に疲れてしまったのか、自分の気力がどこかへ行ってしまったのか。自分でもよくわからない。
やりがいはある。でもそれだけじゃ生活は満たされない
相続登記や遺言の作成、人の人生に関わる仕事に、やりがいがないわけじゃない。でも、それだけじゃ足りないと感じるようになったのは、いつからだろう。孤独や不安といった感情は、やりがいで埋められるものではない。そう気づいてから、日々の忙しさがむしろ苦しく感じるようになった。
事務員の明るさに救われているが、余計に情けなくなる
唯一の事務員は明るくて優秀で、本当に助けられている。けれど彼女が笑顔で働いてくれるたび、どこかで「この人にも、もっといい職場があったのでは」と思ってしまう。そして自分の人間的な魅力のなさ、孤独感、何も与えられていない無力さを突きつけられるようで、余計に情けない気持ちになる。感謝と後ろめたさが同居する、複雑な毎日だ。
独身であることを責めるつもりはないけれど
結婚しない人生を選んだつもりはなかった。気づいたら独身で、気づいたらひとり暮らしが当たり前になっていた。ただ、今になって“誰かと生きる”という選択肢が、ずいぶん遠く感じる。別に独身が悪いわけじゃない。でも、老後のことを考えると、ちょっとだけ、後悔が顔を出す。
誰とも共有しない日常に慣れすぎた怖さ
朝食の味、テレビのニュース、仕事の愚痴。どれも一人で消化する生活に慣れすぎて、共有する感覚が鈍ってきた。人と暮らすのは面倒そうだ、なんて思っていたけれど、本当はその面倒くささが、人をつなげてくれるものだったのかもしれない。誰かと日々を共有するということ、それが思った以上に大切だったと、今さら思い始めている。
自分のことを話す相手がいない、という現実
誰かの死後の手続きは、話し相手がいるから進む。遺族が集まり、思い出話をしながら、「じゃあこの土地は…」と話し合う。でも自分の場合、その“話し合う相手”がいるのかどうか。今日あったこと、感じたことを話す人がいないというのは、地味に、でも確実に心を蝕んでいく。口に出さない孤独が、一番たちが悪い。
「何かあったらお願いします」と言える人がいない不安
いざというときに「これ、お願いできますか」と言える人がいるか。そう自問すると、返ってくるのは沈黙ばかりだ。仕事仲間や知人はいても、“信頼して頼める人”とは違う。万が一のときに託せる相手がいない。それは、老後の最大のリスクかもしれない。書類では割り切れない「心の備え」が、自分にはまだまだ足りない。