たまに誰かと話したくなる午後に、ぼくはひとりで書類をめくっていた
静まり返った午後、ふと訪れる「話したくなる気持ち」
午後の三時。時計の針がカチ、カチと音を立てる静かな事務所。事務員の彼女は黙々とパソコンに向かい、僕は山のような書類の前でシャチハタを押す作業を繰り返していた。ふとした瞬間、なんの前触れもなく「誰かと話したいな」と思うことがある。おそらく、心に空白が生まれる瞬間なのだろう。忙しさに追われているはずなのに、なぜか寂しい。そんな午後が、ときどきやってくる。
忙しさの中にある“静寂”が寂しさを呼ぶ
仕事はある。むしろ山ほどある。でも、その忙しさが「誰かと接する」という意味での忙しさではない。機械的にこなすルーティンの連続で、感情のやりとりは最小限。静寂というより、空虚に近いものがある。誰かと交わす、たった一言の会話がこんなにも貴重に思えるのは、たぶん、日々が無機質だからだろう。
話しかける相手がいないという事実
事務員さんがいても、彼女に気軽に話しかけられるような雰囲気ではない。真面目で、無口で、集中しているのが伝わってくる。変に話しかけたら仕事の邪魔だろうなと思って、いつも声を飲み込む。ふと窓の外を見ると、通りを歩く親子やカップルが笑い合っている。僕にはあんな風に話す相手が、いまはここにいない。
事務員さんは黙々と入力中
「すみません、これ入力お願いできますか」と言ったあとの「はい」という返事。それがこの一時間で交わした唯一の会話だった。彼女に悪気はない。ただ、用件だけで完結してしまうのが、こういう職場の空気というものなのだ。司法書士という職業は、外から見れば人と関わる仕事のようでいて、実際は内向きな時間のほうが圧倒的に長い。
電話は鳴らない、外回りもない午後
いつもなら依頼の電話や、金融機関への訪問で時間が埋まっていくのに、今日はなぜか予定がぽっかり空いている。こういうときに限って、誰からも連絡が来ない。誰かに呼ばれることもなければ、自分がどこかに出かける予定もない。まるで世界から切り離されたような孤独感が、じわじわと押し寄せてくる。
孤独と戦う司法書士という職業の現実
司法書士という仕事は、基本的にひとり作業が多い。依頼者と会うのはほんの数十分、そのあとは登記簿とにらめっこをしながら黙々と作業をこなす。誰かと一緒に悩んだり、相談したりする場面はほとんどない。まるで“孤独に強くなる”ことが、プロとして求められる資質のようにも思えてくる。
誰かと共有できない仕事の重さ
「大変だな」と思っても、誰かに投げかけるわけにはいかない。なにせ、自分が代表で、自分が責任者なのだから。事務員さんには言えないし、クライアントにはもっと言えない。吐き出す場所のない重さが、知らぬ間に肩や背中にのしかかってくる。それが積もり積もって、「誰かと話したい」という気持ちになるのだと思う。
「孤独に慣れる」ことは本当に正解なのか
一人に慣れることで、効率は上がるかもしれない。でも、それでいいのか?と思う瞬間がある。たとえば、雑談から思わぬ気づきを得ることもあるし、愚痴の中に本質があったりもする。全部を自分だけで抱え込むことが「強さ」なのではなく、時には誰かの言葉に揺らぐことこそ、バランスを保つ術ではないかと考えたりもする。
書類の山は会話を返してはくれない
今日は午前中から抵当権抹消の書類を7件分チェックしていた。ファイルの束を見て「おお、けっこうあるな」と思ったが、それが終わった頃にはなぜかどっと疲れていた。会話ゼロ。笑いもゼロ。書類は黙っていてくれるけど、時には言い返してほしくなる。疲れたときは、誰かの一言に救われたいのだ。
時折、依頼者との雑談が救いになることも
先日、遺言書の作成で来所された高齢のご夫婦と、手続き後に15分ほど雑談した。「先生、若いんだから結婚しなきゃだめよ」と笑って言われ、心が少しだけほぐれた。たぶん、ああいう時間が、僕の中で大切な「会話の記憶」として残る。仕事の一部としてじゃなく、人間同士のやりとりとして。
雑談の価値に気づいた日
郵便局で書類を出した帰り道、窓口の女性と「今日暑いですね〜」と笑い合った。それだけの会話なのに、なぜか嬉しかった。人と話すこと自体が、僕の中で欠けていたピースだったのだと気づかされた瞬間だった。
郵便局でのたわいもない会話に助けられた午後
「あ、いつもの司法書士さんですね」と言われて、ふと嬉しくなった。その人にとって僕は、“いつもの”存在になっていた。名前を知らなくても、顔を覚えてくれている。それだけで、なんだかこの世界に自分の居場所があるような気がした。たまには、そんな他愛のないやりとりが心に効く。
「話すこと」で自分の輪郭が少し戻ってくる
ずっとひとりで仕事をしていると、自分の輪郭がぼやけてくる。ただの司法書士という役割に埋もれて、人間としての感情が薄れていくような感覚になる。誰かと話すことで、自分が「人間」だったことを思い出せる。たとえ5分の雑談でも、それは大きな意味を持っているのかもしれない。
愚痴を言える相手がいることの大切さ
年に何度か、司法書士仲間でLINEグループに近況を報告し合うことがある。「疲れた〜」「この案件無理ゲー」みたいな愚痴が飛び交うだけなんだけど、そこに自分をゆるせる空気がある。誰にも見せない弱音を吐ける場所があるというのは、精神的にかなり大きい。
司法書士同士のLINEグループが心の避難所に
直接会うことは少ないけど、テキストのやりとりだけでも十分救われる。みんな同じように、静かな午後に疲れていて、誰かとつながりたくなっている。自分だけじゃないんだと感じられることが、思っている以上に励みになる。SNSでは見せない本音を言える、その空気感がありがたい。
それでも誰にも言えない愚痴がある
とはいえ、本当に深い部分の孤独は、やっぱり誰にも言えなかったりする。とくに独身で、地方で、異性からの人気もゼロというこの状況では、もはや誰にどこから話せばいいのか分からない。「まあ、今日も生きてるし…」とひとりごとを言って、また書類に目を落とす午後が続く。
「忙しい」って言葉がもはや口癖
「どう?最近忙しい?」と聞かれるたびに「うん、まあね」と答える。でも正直、忙しいって言葉に意味なんてなくて、ただの逃げ口上になっていることもある。本当は「暇だけど、なんか疲れてる」と言いたい。でも、それを言える場がなさすぎて、つい「忙しい」とだけ答えてしまう。
ただの弱音でも、吐ける場が欲しい
別に誰かに解決してほしいわけじゃない。ただ「そうだよね」と聞いてもらえるだけでいい。誰かとつながることで、自分の声が音になる。それがなければ、独り言と何が違うのか。だからこそ、たまに誰かと話したくなる午後は、僕にとって「人間らしさのリセット」なのかもしれない。
独身司法書士の午後三時、誰かと話したくなる理由
世間的には“しっかりした大人”に見えているのかもしれない。でも、その仮面の裏側では、こうして孤独や不安と折り合いをつけながら、なんとかやっている。午後三時、少し冷めたコーヒーを片手に、「誰か、ちょっと話そうよ」と思ってしまうこの気持ちは、きっと僕だけじゃないはずだ。