今日はどうしても、誰かの人生がよく見えてしまう
ふとした瞬間、他人の人生がやたらと輝いて見えることがある。別に不幸というわけでもない。だけど、となりの誰かの芝生がまぶしすぎて、自分の足元がやけにくすんで見える。そんな日がある。私は今日、それにやられた。司法書士という仕事を選び、独立して十年以上。忙しいながらも淡々と毎日をこなしているはずなのに、なぜか今日は、自分だけ取り残されている気がしてしまう。
朝、SNSで見た「成功報告」が心に刺さる
今朝、SNSを開いた瞬間から調子が狂った。知り合いの司法書士が新たに法人化して事務所を拡張したという投稿。綺麗な外観のビル、笑顔のスタッフたち。「地元密着で、信頼される事務所を目指します」と添えられた言葉。それを見て、素直に「すごいな」と思えなかった。自分も昔はそういう投稿に夢を見ていた。だが今は、狭い事務所で一人と一人。忙しいけど、華やかさとは無縁の日常だ。
「自分も頑張ってるはず」なのに結果が出ない苦しさ
手を抜いているつもりはない。朝から晩まで、相談対応、登記書類作成、役所とのやりとり。手間のかかる案件にも粘り強く対応してきた。それでも、目に見える形での成長や「評価」が得られないことが多い。売上は安定しているものの、飛躍とまではいかない。頑張っても報われないような気がするとき、「何のためにやってるんだろう」と自問してしまう。
羨ましい気持ちの裏側にある「自信のなさ」
誰かの成功が羨ましく見えるのは、たぶん自分の中に自信がないからだ。根っこには「自分は他人より劣っているかもしれない」という感覚がある。学生時代、ずっと優秀な兄と比べられて育った記憶がよみがえる。司法書士になってからも、「あの先生は本を書いた」「あの先生は講演に呼ばれていた」…気にしないつもりでも、気になる。自信がないと、他人の成功が攻撃のように感じてしまうのだ。
同業者の活躍が、なぜか素直に喜べない
同業の知り合いがメディアに登場したり、YouTubeでバズったり、ラジオに出演したりするのを目にするたびに、心のどこかでざわつく。素直に「すごいな」と言えない自分に、嫌気が差す。でも正直に言えば、同じ資格を持っていて、同じ土俵に立っているつもりだったからこそ、余計に心がザワつくのだ。遠い存在ではなく、「かつて肩を並べていたはずの相手」が前を走っているようで。
地元では目立たず、都会の話題ばかりが注目される
地方で地味にコツコツ仕事をしていても、評価されることは少ない。司法書士会の活動でも、東京や大阪の有名な先生ばかりが目立つ。地元の高齢者相手に地道に相続相談をしているような仕事は、誰にも話題にされない。「派手なことをしてる人のほうが評価されるのか」と思うと、やるせない気持ちになる。それでも地元でやっていくしかない。そう自分に言い聞かせるが、心のもやもやは晴れない。
「負けたくない」のに「もう無理かも」と思ってしまう
「次こそは自分も何か成果を出したい」「まだいける」と思いながら、どこかで「このまま平凡に終わるのかもな」とも思っている。負けたくない気持ちと、限界を感じる気持ちが交錯する。若い頃のようなエネルギーはもうない。新しいことに挑戦する勇気も、予算も、時間もない。悔しさの中に、あきらめが混じり始めている。それが一番怖い。
比較してしまう心のクセに、そろそろ疲れた
誰かと自分を比べるたびに、心がすり減っていく。自分にはないものばかり目について、自分の良さなんて見えなくなる。他人の芝生が青く見えるのは、自分の芝生をちゃんと見ていないからかもしれない。それでも、気づけばまた誰かの投稿を見てしまい、ため息をつく。そんな日々に、そろそろ疲れてきた。
独立して10年以上経っても「報われた」と思えない
「独立すれば自由になれる」と思っていた。確かに雇われていた頃よりは裁量がある。でも、責任もストレスも格段に増えた。案件が少なければ不安になるし、多すぎれば心が折れそうになる。10年以上続けてきたのに、「よくやってるね」と言ってくれる人は少ない。誇らしさよりも、疲労感が勝つ。報われたと感じる瞬間は、意外と少ないのだ。
「これで良かったのか」と自問する日々
この道を選んでよかったのか、ふと立ち止まって考えてしまうことがある。選択肢はいくらでもあった。司法書士になるために費やした時間とお金、努力。それが本当に報われているのか、自信が持てない日もある。でも、今さら別の人生を選ぶわけにもいかない。後悔と納得の間を行ったり来たりする日々だ。
思い描いていた未来と、今の自分とのズレ
開業前は「地域に必要とされる存在になりたい」と思っていた。だが、現実はもっと地味で、もっと孤独だった。依頼者との関係も一期一会で、深く繋がるわけでもない。日々の業務に追われ、「理想の司法書士像」とはほど遠い現実。いつの間にか「食べていくこと」が最優先になり、情熱は薄れていった気がする。
孤独な環境が思考を内向きにする
一人でやっていると、どうしても内省が増える。いい意味での振り返りならいいが、自己否定につながるような考えがぐるぐる回る。事務員さんがいるとはいえ、こちらの気持ちまで理解してもらえるわけではない。愚痴を言う相手もおらず、溜まるのはため息だけだ。
事務所で一人きりの昼休みの寂しさ
昼休みになると、事務員さんは自宅に帰ることが多い。私はコンビニで買ったパンを机でかじるだけ。静まり返った事務所に、カリカリという紙の音だけが響く。その瞬間、「自分、何やってるんだろう」と虚しくなることがある。誰かと会話したい、笑いたい、ただそれだけなのに。
「誰かと話したい」が言えない性格
本当はもっと人と関わりたい。でも、歳を重ねるほど「弱音を吐けない」「頼れない」自分になっていく。事務員さんや友人にすら「ちょっとしんどくてね」と言えない。結局、誰にも話せないまま、また明日も同じ顔で仕事をする。それが司法書士としての「プロ意識」だと自分に言い聞かせながら。
それでも前に進む理由を、また探してみる
どんなにしんどくても、明日もまた仕事がある。誰かが自分を頼ってくれる。それだけで、なんとか踏ん張っている。隣の芝生が青く見えても、ここで生きていくしかない。自分の芝生を手入れする。それが、自分にできる唯一のことだ。
依頼者の「ありがとう」が心に残る瞬間
たまに、依頼者から「先生のおかげです」と言ってもらえる瞬間がある。その一言に救われることがある。派手なことはできないけれど、目の前の人の助けになれているのなら、それだけで十分かもしれない。小さな感謝の積み重ねが、唯一の誇りだ。
小さな案件にも意味はあると信じたい
登記一件、相続一件、書類の確認一件。それぞれは小さな仕事かもしれない。でも、その一つひとつが、依頼者にとっては人生の節目だったりする。派手な成果がなくても、地味な仕事を誠実にこなす。それが、自分にできることだ。
「誰かの人生の節目」に立ち会える責任と重み
不動産の購入、親の相続、会社設立。人の人生の転機に関わる仕事をしているという自覚が、最後の支えになる。この責任と重みを忘れずにいる限り、自分の芝生はきっと少しずつでも育っていくと信じたい。
今日も仕事があることのありがたさ
仕事があるだけでありがたいと思える日もある。忙しさに感謝できる日は、まだやれるという証拠だ。隣の芝生を眺めてばかりでは、自分の足元を見失ってしまう。少しずつでも、自分の芝生に水をやる日々を続けたい。
やたらと青く見える芝生に目を奪われすぎずに
他人の成功や幸福ばかりに目を奪われると、自分の本当の価値を見失う。自分の芝生には、自分だけの色があるはずだ。焦らず、比べず、自分らしくやっていく。その積み重ねが、やがて誰かの「羨ましい」に変わる日がくるかもしれない。
「自分の芝生」を育てる覚悟を、また思い出す
どんなにくすんで見えても、自分の芝生は自分の手で育てるしかない。手間がかかっても、根気が必要でも、育て続けるしかない。となりの誰かがまぶしく見える日でも、今日のこの一歩が、きっと自分の未来をつくっていく。