「ただいま」に返る声がない日常
毎日仕事が終わって事務所の電気を消し、車を走らせて自宅に戻る。鍵を開けて玄関のドアを開けるその瞬間、ふと「誰かが待っていてくれたらな」と思う。でも当然ながら、返事はないし、誰もいない。40代独身男性、地方の司法書士。自宅は静かで、整ってはいるが、温かさがない。ただ、生活するだけの場所。そんな場所に向かって「ただいま」と呟くことに、最近は虚しさすら覚える。
ドアを開けても、ただの静寂
家に帰ると、テレビの音もなく、照明も暗いまま。靴を脱いで、スーツを脱いで、ふと部屋を見渡すと、どこにも人の気配がない。昔はこれが「気楽でいい」と思っていた。でも今は違う。ただの静けさが、逆に疲れた心に重くのしかかる。何かが足りない、そんな感覚が常につきまとう。自分が帰ってきたことに、誰も気づかないということが、こんなに堪えるとは思わなかった。
冷蔵庫の唸り音だけが迎えてくれる
帰ってきてまず耳に入るのが、冷蔵庫の低いモーター音。あとは換気扇の微かな回転音。人の声どころか、足音すら聞こえない空間に、疲れた身体を投げ出すのが日課になっている。「寂しい」と言葉にするのは簡単だが、それ以上に「存在を認識されていない感覚」が一番つらい。たとえ口うるさい誰かでも、出迎えてくれる存在がいれば、たぶん世界の見え方も違っていた。
帰宅しても気が抜けない、独りの緊張
独り暮らしのいいところは、自分のペースで過ごせること。でもそれは同時に、「誰も見ていない」という意味でもある。仕事中の緊張感を家でようやく解ける…はずが、誰もいないからこそ気を抜くことも怖い。例えば風邪を引いたとき。誰にも頼れず、ひとりで薬を飲んで布団にくるまる。こういうとき、「おかえり」「大丈夫?」の一言がどれだけ心を救うのか、身に沁みてわかる。
司法書士としての責任と孤独
司法書士という職業は、社会的信用もあって「しっかりしてそう」と思われがちだ。でも実際は、プレッシャーと孤独の連続だ。相談に来る人は、みんな深刻な事情を抱えている。僕はそれを受け止め、適切な手続きをし、言葉を選びながら説明する。日中は「先生」と呼ばれ、求められる存在。でも家に帰れば、誰からも求められない。ただの孤独な男に戻るだけ。
依頼者の人生は預かっても、自分の生活は空っぽ
登記、相続、会社設立、借金整理…。人の人生に関わる仕事をしている。だからこそ、僕の言葉ひとつに重みがあるし、慎重にならざるを得ない。だけど、ふと気づくと、自分の生活には誰も関わっていないことに気づく。依頼者の未来は考えるのに、自分の未来はあやふやだ。仕事はある、収入も安定している。でも心の中にぽっかり空いた部分は、何年経っても埋まらない。
「先生」と呼ばれることが、なぜか重たい
「司法書士の先生に聞いてみよう」なんて言われると、正直気が重い。もちろん頼られるのは嬉しいけれど、「ちゃんとしなきゃ」という責任感が常に背中にのしかかってくる。誰かと雑談したり、弱音を吐いたり、そんな時間がないわけじゃないけど、職業柄、それを許してくれる相手がほとんどいない。だから、どんどん「先生」としての仮面をかぶったまま日々を送ってしまう。
忙しいのに、寂しさは減らない
仕事が忙しいと、孤独を感じる暇もない…そう思っていた時期があった。でも実際は、忙しいからこそ余計に「誰かにそばにいてほしい」と思うようになった。疲れて帰ったときに、「今日はどうだった?」と聞いてくれる人がいるだけで、どれだけ心が軽くなるだろう。そう思いながら、今日もひとり分の夕食を用意する。
日々の業務に追われる感覚
朝からメールチェック、電話応対、書類作成。午後は役所や法務局への外出、相談対応、急な案件の処理…。何かしらの予定に追われながら、気づけば夕方になっている。そんな毎日の中で、ふと時計を見ると「もうこんな時間か」とため息が出る。働いているのか、働かされているのか。司法書士って、こんなにも業務が多岐にわたっていて、休む隙がないのかと、自分でも驚くほど。
相談、登記、書類、打合せ…無限ループ
業務の内容はバラエティ豊かだが、気持ちの余裕は少ない。同じような書類を何度も見て、同じ説明を繰り返して、それでも毎回、状況が違うから気を抜けない。「一件終わった」と思ったら、また新たな案件が待っている。しかも、精神的な負担が大きい内容ばかり。家庭のトラブル、相続争い、借金問題…。そんなことに毎日向き合っていると、自分の感情がどこかに行ってしまう。
事務員に頼りすぎて、申し訳なさすら覚える
事務員の彼女は、本当に頑張ってくれている。細かい確認作業、来客対応、郵便手配。僕が「この書類、頼める?」と頼むと、嫌な顔ひとつせず対応してくれる。でも、たまに心の中で「この人にも生活があるんだよな」と思ってしまう。自分は結局、ひとりだからいくらでも残業できる。でも彼女には家庭がある。そこに甘えてしまってる自分が、情けなくてたまに落ち込む。
それでも、明日も「おかえり」がない家に帰る
誰かに「おかえり」と言ってもらえるような人生を、どこかであきらめてしまったのかもしれない。でも、心のどこかではまだ望んでいる。今日もまた、玄関のドアを開けて静かな部屋に入る。ふとした瞬間、どこかの家庭の笑い声が壁越しに聞こえてくることがある。そのたびに、「いつか、自分にもそんな日が来るのだろうか」と考えてしまう。
なんとか日々を回すしかない
仕事は山積みで、やることは尽きない。でもそれが、ある意味「孤独の言い訳」になっているような気もする。忙しさに紛れて、考えたくないことから目を背けているのかもしれない。だけどそれでも、依頼者のために手を動かす。誰かの人生の手助けをすることで、自分の存在価値を確認している。それが今の自分にできる、せめてもの「生きている証」だ。
事務員の笑顔に救われる日もある
「今日も一日お疲れさまでした」──そんなひとことが、どれだけ嬉しいか。事務員が言ってくれるこの言葉だけが、僕にとっての「おかえり」なのかもしれない。家庭がなくても、恋人がいなくても、人とのつながりが救ってくれる日がある。そんな小さな幸せを、見落とさないようにしたいと思う。
依頼者の「ありがとう」で踏みとどまる
「本当に助かりました」と言って頭を下げてくれる依頼者の姿に、自分のやっていることが無駄じゃなかったと気づく瞬間がある。報酬よりも、その言葉の方が、心に沁みるときがある。今日もまた誰にも「おかえり」とは言われなかったけれど、「ありがとう」と言われた。それだけで、少しは救われる。