慣れという名の鎧を着て
人は何にでも慣れると言います。悲しみも、痛みも、孤独でさえも。しかし、私はこの「慣れ」にいつしか苦しめられていました。地方で司法書士事務所をひとりで切り盛りして十数年。最初は誰かと話すことがなくて寂しかったのに、今ではそれが当たり前になってしまった。けれど、その「当たり前」に小さな違和感を覚える夜があります。慣れてしまったことが、決して自分にとって良かったとは思えないのです。
誰かと比べることすらしなくなった
最初の数年は、同年代の友人たちと自分を比べてしまっていました。「結婚して子どもがいる」「休日は家族サービスで忙しい」と聞くたびに、自分だけ取り残されたような気持ちになったものです。でも、いつしかそういう比較すらしなくなった。というより、比べること自体が虚しくなってきたんです。どんなに見たって、自分の人生は自分ひとりでしか歩けない。そんな開き直りにも似た気持ちが、ますます孤独を深くしていきました。
「一人でも平気です」と言ってしまう自分
「一人でも平気です」。そう口に出して言えるようになったとき、自分の中で何かが終わった気がしました。本音ではないのに、まるで訓練されたようにそう言ってしまう。昔、地元の集まりに参加したとき、「奥さんいないんですか?」と聞かれて、笑って「慣れましたよ」と答えた自分がいました。その場は笑いが起きましたが、家に帰った後、自分で自分の返しがやけに空虚で、妙に響いたのを覚えています。平気なふりは、ときに一番不健康です。
孤独は効率的?そんなわけない
「一人でやるのが気楽でいい」と思うようになったのは、周囲との関係を諦めたからかもしれません。確かに、誰かに気を使わなくて済む分、作業ははかどります。登記も、書類作成も、誰にも相談せず黙々と片付ける。だけど、ふとした瞬間に、「このやり方、本当に良かったのか?」と立ち止まることがあるんです。効率的ではあるけれど、それが心地よいとは限らない。むしろ、自分をすり減らしているだけなのかもしれません。
誰にも気を使わなくて済むという勘違い
「気を使わなくて済む」というのは、一見すると楽な選択に思えるかもしれません。でも実際は、誰にも気を使わない代わりに、自分に全ての責任がのしかかってくる。事務所の空気も、人との関係も、自分の感情すらも、全部自分でコントロールしなきゃならない。それって、案外疲れるんです。むしろ他人がいたほうが、感情を外に出すきっかけになることもある。結局、気を使わない生活は、心を閉ざす方向に向かいやすいのかもしれません。
それでも人恋しい瞬間がある
どんなに「ひとりが楽」と自分に言い聞かせても、季節の変わり目やふとした休日には、人恋しさが湧き上がってきます。特に年末年始のような、世間全体が「誰かと過ごす」モードに入ると、自分だけ無人島に取り残されたような気分になる。昔はそんな時、誰かにLINEを送ることもありました。でも今は、送り先がない。だから、テレビのバラエティ番組を見て無理やり笑うんです。笑ってる間だけ、孤独じゃない気がして。
仕事に逃げた日々の末路
孤独から逃れるように、私は仕事にのめり込んできました。朝から晩まで、登記簿と向き合っていると、余計な感情が入り込む隙間がなくなるから。でも、それは麻酔のようなもので、効き目が切れたときの反動が大きい。仕事が終わった後の夜、誰もいない部屋に帰ったときの、あの虚無感。たとえ今日どれだけ頑張ったとしても、誰にも褒められない、共有されない。それが積もり積もって、だんだん心が無感覚になっていくのを感じます。
忙しさで埋める感情の隙間
「今日は8件処理した」「相談3件こなした」──そんな風に、数字や量で自分の存在価値を確かめようとする癖がついています。でもそれって、本質ではないですよね。本当は、もっと心が動くようなやりとりがしたい。ありがとうの一言でもいい。誰かと関わって、気持ちを分け合う。それができない日々が続くと、自分がただの作業マシーンのように思えてくる。司法書士としてではなく、人として何かが欠けていく感覚です。
「この登記終わったら何がある?」と自問自答
夜、ふと「この登記が終わったら、自分には何が残るんだろう」と考えることがあります。仕事は大切です。でも、それだけじゃ満たされない何かがある。登記の終わりに、ささやかな会話があったり、誰かとの笑顔が見られたりしたら、それだけで違う気持ちになれると思うんです。そういう小さなやりとりすら、今の自分には不足している。事務所の電気が消えた後の静けさが、それを痛いほど教えてくれます。
事務所に灯るひとつの明かり
唯一の救いは、事務員さんの存在です。決して多くは語らないけれど、朝「おはようございます」と声をかけられるだけで、心が少しだけ柔らかくなります。とくに、忙しい時期に黙ってお茶を入れてくれるその仕草には、何度救われたかわかりません。大袈裟かもしれませんが、そのひとつの明かりがなければ、私はもっと心を閉ざしていたと思います。人の温もりは、たとえ小さくても大きな支えになるのです。
事務員の気配が唯一の救いになる瞬間
一度、事務員さんが体調不良で2日休んだことがありました。そのとき、事務所の空気が一気に冷たくなったような気がしました。誰とも言葉を交わさず、無音の中で仕事をする二日間。たった二日なのに、こんなに重苦しいのかと驚きました。人の存在は、目に見えないけれど確かに空間を満たしてくれる。それを実感した出来事でした。そして同時に、自分がいかにその存在に甘えていたかも思い知らされました。
「ありがとう」を言いそびれる日常
それでも私は、感謝の言葉を素直に口にするのが苦手です。「助かってます」「ありがとう」──言おうと思っていても、タイミングを逃してしまう。事務員さんが淡々と仕事をこなしてくれることが、どれだけありがたいかを感じていながら、それを言葉にできない。気づけば、それが日常になってしまっている。でも、そういう日常こそが、一番壊れやすいのかもしれません。もっとちゃんと伝える努力をしなければと、心のどこかで思い続けています。
慣れたけど、慣れたくなかった
ひとりでいることに慣れてしまった。それは確かに現実です。でも、本音を言えば──慣れたくなんてなかった。誰かに頼りたいとか、誰かと笑いたいとか、そんな当たり前の感情を、どこかに置き忘れてきた気がしています。司法書士としての誇りはある。でも、人としての温もりが、ぽっかり抜け落ちているような気がしてならないのです。
この感情に名前をつけるなら
この状態をなんと呼べばいいのか、自分でもよくわかりません。孤独とはまた違う、慣れ過ぎた静寂。まるで「ひとり」を履き慣らした靴のような感覚。履き心地は悪くないけれど、どこにも行きたい場所がない。そんな感じです。誰かに頼るのが怖いわけじゃない。ただ、頼れる誰かがいないだけ。それに慣れてしまった自分が、少し悲しいのです。
孤独と付き合う覚悟より、希望が欲しい
これからも一人でやっていく覚悟はあります。でも、本音を言えば、覚悟よりも希望がほしい。たとえ小さくてもいいから、「明日は誰かと笑えたらいいな」と思えるような、そんな希望。司法書士という職業柄、冷静で、論理的で、感情を表に出さないことが求められるかもしれません。それでも、心の中にはちゃんと感情がある。孤独に慣れても、心までは麻痺させたくない。そう強く思っています。