なんでこんなに疲れてるんだろう

なんでこんなに疲れてるんだろう

朝起きた瞬間からもう疲れている

目覚ましが鳴った瞬間、まず感じるのが「はぁ…今日もか」というため息。身体がベッドに沈んだまま動かない。疲れが取れた実感なんてもう何年もない気がする。年齢のせいかとも思ったけど、若いころだってこんなだったか?いや、違う。あの頃は少なくとも「今日は何かいいことあるかも」と思えていた。でも今は、毎日が「どう乗り切るか」だけで精一杯。朝からすでに戦いが始まっている感覚だ。

疲れが取れない原因は本当に年齢のせい?

年齢のせいだと思えば、ある意味あきらめもつく。でも、それだけじゃないと感じる。精神的な疲労、仕事に対する緊張感、プレッシャー。これらが積み重なって、夜寝ても寝ても、疲れが取れない。特に登記の期日が重なる月末や、依頼者対応が連日続く時期は、常に頭が回転していて、身体を横にしても脳が休まらない。あれこれ考えているうちに朝が来る。それを「年だから」で片づけてしまうと、もっと自分が情けなく感じてしまう。

睡眠時間は足りているのに休まらない

「7時間寝たはずなのに、なんでこんなにだるいんだろう?」そんな日が増えた。布団に入ってからも、ついつい明日の準備のことや、あの書類提出間に合うかと考えてしまい、ぐっすり眠れない。夢の中でもお客さんに頭を下げていたり、法務局で書類を忘れて青ざめている自分がいたりする。そんな夢から目覚めて、朝日を見たときの気持ちの重さ。休んだはずの時間が、むしろ自分を追い詰めているように感じる。

夢の中でも登記してる気がする

夢の中で登記識別情報の書類を探していて、目が覚めた瞬間「現実だったか?」と確認することがある。事務所の棚を開けて確認して、ようやく安心する。でもその時点でもう心は完全に仕事モード。休日の朝でも、ついスマホの通知を確認して、「急ぎのメール来てないかな」と思ってしまう。この感覚、まるで自分の人生がすべて仕事に飲み込まれているようで、ふと恐ろしくなることがある。

誰にも頼れないという現実

一人で事務所をやっていると、どんな些細なことも「最終的には自分で責任を取る」意識が離れない。もちろん事務員さんは頑張ってくれているし、ありがたい存在。でも、専門的な判断や対外的な対応は全部自分だ。誰にも相談できず、一人で悩んで、一人で処理して、一人でミスを恐れる。その積み重ねが、身体ではなく心をどんどん削っていく。

事務員さん一人では正直まわらない

うちの事務員さんは優秀だ。でも、それでも一人では限界がある。お客様の電話対応をしている間に、別のお客様が来所し、さらにその間に法務局からの折り返しが鳴る。どれも対応を後回しにできない。このバタバタを見て「この事務所大丈夫か」と思われてないかと不安になる。かといって人を増やせるほどの余裕はない。このジレンマが、常に背中にのしかかっている。

「ちょっと聞いていいですか?」が連続で来ると頭が真っ白に

一つ一つは小さな相談でも、立て続けに「ちょっと聞いていいですか?」が続くと、思考が完全に停止する。午前中に3件、午後に2件、すべて異なる内容で、すぐに判断を求められる。「あれ、さっきの案件どこまでやったっけ?」と自分の記憶も怪しくなる。頭が真っ白になって、「…すみません、少しだけ時間ください」とつぶやく自分が情けなくて仕方がない。

「私が辞めたらどうします?」の破壊力

ある日、ふとした会話の中で事務員さんが「私が辞めたらどうします?」と冗談混じりに言った。冗談とわかっていても、心臓がヒュッと縮むのを感じた。実際、辞められたら本当に困る。全部の業務が自分にのしかかる。求人を出してもすぐに人が来るわけじゃない。笑って返したけど、心の中では「この仕事、もう限界かもしれない」と本気で思った。

一人の時間があっても疲れは消えない

たまに平日にポッと空いた時間ができても、正直リラックスできない。「今のうちに何を片づけるか」と考えてしまい、結果、休むどころか逆に焦る。映画を見に行っても、ふと登記ミスのことが頭をよぎる。心が休まる瞬間が、本当にない。疲れは「休めば取れるもの」だと思っていたけれど、今の私は違う種類の疲れを抱えているのかもしれない。

休みの日に仕事の電話が鳴る恐怖

日曜日の朝。ようやく寝坊できたと思った矢先に携帯が鳴る。表示されたのは依頼者の名前。「緊急だったらどうしよう…」と一気に目が覚める。実際には大した内容じゃないことが多いけれど、「何か起きたのでは」という緊張が抜けない。電話が終わっても、心拍数は高いまま。そのまま気持ちが切り替わらず、せっかくの休日も「仕事モード」で過ごしてしまう。

結局、仕事のことしか考えられない自分

同級生が家族と旅行に行った話をSNSに投稿していた。写真には笑顔の奥さんと子どもたち。ふと「自分は?」と考える。ここ数年、まとまった旅行なんてしてないし、行きたいとも思えなかった。常に「事務所がまわるか」「クレームが来ていないか」ばかり気になって、気持ちが離れられないのだ。気づけば、仕事のことしか考えられない人間になっていた。

他人と比べて勝手に落ち込む

人は人、自分は自分。そう思おうとしても、SNSや会話の中で、ふと他人の「うまくいってる感」にやられてしまう。「あの人、同業なのに社員もいて事務所も立派だな…」「なんで自分はこんなにしんどいんだろう?」と落ち込む。比べたって仕方ないと頭ではわかっていても、心が追いつかない。自分だけ取り残されてるような感覚に、時々耐えられなくなる。

同期のSNSが眩しすぎる

司法書士登録が同じ年だった知り合いが、最近法人化して、所員も数人雇っている。仕事も順調らしく、セミナー登壇の報告などがタイムラインに流れてくる。応援したい気持ちもあるが、それ以上に「自分には無理だ」という焦燥が湧く。何かが間違っていたのか、努力が足りなかったのか。いや、精一杯やってきたはず。でも、眩しすぎるその姿に、なぜか涙が出そうになった。

「成功者」へのひねくれた感情

「あの人はどうせコネがあるから」「資金力が違うから」…成功している人に対して、素直に称賛できない自分がいる。ひねくれているとはわかっている。でも、心が弱っているときは、そうでもしないと自分を保てない。誰にも言えないこの感情。自分がどんどん小さくなっていく気がして、時々、全部を投げ出したくなる瞬間がある。

頑張っているのに誰にも気づかれない

毎日、休まず仕事をしているのに、「先生は自由でいいですよね」と言われることがある。自由?どこが?と思ってしまう。自分なりに頑張っているつもりでも、それは誰の目にも映らない。評価されたいわけじゃない。でも、せめて「大変そうだね」と一言でもあれば、少しは心が救われるのに。その小さな共感の欠如が、心を静かに削っていく。

「先生は楽でいいですよね」と言われた日

たまたま役所で顔を合わせた知人に言われた。「先生は自由でいいよね、事務所にいなくてもいいんでしょ?」と。カチンとくる気持ちを押さえて笑って返したが、内心では「こっちは毎日プレッシャーと戦ってるのに」と叫んでいた。表には見せない苦労をわかってもらえないことが、一番しんどい。孤独とは、こういうことなのかもしれない。

わかってほしいのは承認じゃなくて、共感

「すごいですね」「尊敬します」なんて言葉じゃなくていい。ただ「大変だね」「しんどいよね」って言ってくれる人が一人でもいたら、少しは救われるのにと思う。承認がほしいわけじゃない。ただ、人間らしく、不安や弱音を吐いてもいい場所がほしい。そう思って、この文章を書いている。誰かに届いてほしい。誰かの心に、「わかる」と響いてくれたら、それで今日は少しだけ救われる気がする。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

告白のタイミングも逃しがち

告白のタイミングも逃しがち

タイミングがすべて、でもその「すべて」がわからない

「あのとき言っておけばよかった」と、夜ひとりで事務所の電気を消すときにふとよぎる思いがある。司法書士という職業柄、慎重さが身についてしまっていて、感情のままに動くことができない。「仕事が落ち着いたら」と思っていた矢先に、相手の結婚報告がSNSに流れてきたこともあった。あのときの胸の奥の重苦しさといったら、誰にも言えなかった。恋愛も人生もタイミングがすべてだと痛感するけれど、その「すべて」は、振り返ったときにしか見えてこない。

気づいたときには遅い告白の瞬間

自分が特別な感情を持っていると気づくのは、たいていその人が離れていこうとするときだ。話すたびにほっとしたり、顔を見ると安心する相手がいた。でも、伝える勇気がなくて、仕事を理由にその気持ちをしまい続けた。そして彼女が別の男性と付き合い始めたと聞いたとき、胸が潰れそうになった。感情は持っているだけでは何の意味もない。口にしないと何も伝わらない。その当たり前を、何度も失敗してようやく思い知った。

仕事に追われて気づかぬ間に人が離れていく

司法書士という仕事は、相手の感情に寄り添うより、事務手続きの正確さや効率が求められる。日々の業務に追われていると、誰かとじっくり話す余裕すらなくなる。付き合っていたわけでもないのに、距離ができてしまったことに気づいたときは、すでに取り返しがつかないところまで来ていた。事務員から「最近あの人見ないですね」と言われたとき、何とも言えない虚しさに襲われた。

「今度でいいか」が一生の後悔になる

「今度ゆっくり話そう」「また今度誘ってみよう」——そんな言い訳が何度も口癖のように出てきた。でもその「今度」は永遠に来なかった。告白のタイミングも、思い切って踏み出す勇気も、日常に飲まれて消えてしまう。「今日じゃなくてもいいか」と思ったその一瞬が、人生の分岐点だったことを、あとになって痛感する。

「今じゃない」が続く日々の中で

本当に今なのか、まだ早いのか、そんなことを考えているうちに時間は過ぎる。「告白しようと思ったけど、忙しそうだったからやめた」と何度も自分に言い訳していた。だが、その言い訳が重なっていった結果、気持ちは伝えられず終わる。気づけば、思いを寄せていた相手には別の人生が始まっていた。あの人の幸せそうな笑顔を見て、何も言えずにただ遠くから見ていた。

忙しいことを言い訳にしている自分

「忙しい」が口癖になってしまっていた。確かに忙しい。でも本当にそれだけだったのか。事務所を一人で回しているプレッシャーや、失敗が許されない案件の重圧。だけど、本当は、傷つくのが怖かっただけなんじゃないか。断られるのが怖くて、「忙しいふり」で逃げていた自分に、気づいたときは情けなかった。

余裕ができたらなんて、永遠に来ない

「落ち着いたら」「余裕ができたら」なんて、現実には存在しない。仕事に完璧な終わりなんてないし、余裕は作らなければ永遠に訪れない。人生は待ってくれない。そう気づいたのは、相手がもう隣にいないと知った日だった。

司法書士という職業と人付き合いの相性

司法書士の仕事は、人と関わっているようで、その実かなり孤独な作業が多い。書類とにらめっこしている時間のほうが長く、感情を交える場面は少ない。気づけば、人との距離感がつかめなくなっていた。優しくしても、どこか一歩引いてしまう。それが「距離感を保つプロ」としての自分なのかもしれないけれど、そのせいで心の距離も開いてしまうのは皮肉だ。

相手に踏み込むのが苦手な職業病

人の領域に踏み込まないことは、司法書士としてのスキルでもある。でも、恋愛ではそれが逆効果になる。相手の心の中に入っていくには、ある程度の無神経さも必要だと思う。ところが、慎重すぎて、気づいたときには相手が「あ、この人はそういう気がないんだ」と思って離れていく。だから、踏み出す勇気を持てないまま、また誰かが去っていく。

形式的なやりとりに慣れすぎた代償

「いつもお世話になっております」「以上、よろしくお願いします」。こんな言葉ばかりを毎日使っていると、人と心で話すことがどんどん下手になる。恋愛なんて、もっとくだけた言葉が必要なのに、言葉選びに時間がかかってしまう。そうしてまたタイミングを逃す。告白も、気持ちも、言葉にしなければ伝わらないとわかっていながら、つい後回しにしてしまう。

本音で話すことに必要な「訓練」

本音を伝えることにも訓練が必要だと、最近思うようになった。普段から誰かと感情をやりとりする習慣がなければ、いざというときに言葉が出てこない。思っているのに伝えられない。それは、想いがないのではなく、慣れていないだけ。小さな本音からでも話せるようになることが、もしかしたら「タイミングを逃さない」秘訣なのかもしれない。

逃したタイミングは取り戻せないのか?

一度逃したタイミングは、もう戻らないのか。そう思うと、どうしても落ち込むし、自己嫌悪にもなる。でも、完全に手遅れなことなんて、実はそうそうないのかもしれない。新しい出会いはまた訪れるし、過去の失敗から学んだことは次に活かせる。大事なのは、過去にしがみつくより、次は逃さないという覚悟を持つことだ。

後悔しないために今日できること

今できることは、小さな行動にすぎない。でも、その一歩がなければ何も始まらない。メッセージを送る、声をかけてみる、ちょっとした言葉を伝える。それだけでも、昨日までとは違う結果が生まれるかもしれない。タイミングを逃しがちな自分だからこそ、意識して「今日やる」ことを心がけるようにしている。

「また今度」はもう言わないための覚悟

「また今度」「そのうち」「余裕ができたら」——この言葉を使うたびに、何かを失ってきた気がする。だからこそ、もう使わないと決めた。怖くても、不器用でも、気持ちは今伝える。それがどんな結果になったとしても、後悔しないために。司法書士としての慎重さは、人生のすべてには使えない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。