他人の人生には関わっているのに、自分の人生は止まったまま
司法書士という仕事柄、毎日のように「人生の節目」に立ち会う。結婚、相続、不動産の取得や売却――どれもその人の人生の節目であり、新たなスタートラインだ。書類を通して他人の人生に触れ、手続きを整えることで「おめでとうございます」と口にする。だが、ふと立ち止まって気づく。「俺はいつから、自分の人生を通過しなくなったんだろう」と。止まっているのは時計じゃない、感情と決断だ。見送るだけの人生になってしまっている感覚が、胸を締めつける。
登記に見る「人生の通過儀礼」
登記手続きには、その人の生活の変化が詰まっている。住宅を購入する人、相続で実家を引き継ぐ人、離婚で名義変更をする人。自分の机の上に並ぶ書類は、すべて誰かの「節目」を証明するものだ。依頼者の人生の変化を、淡々と処理していく中で、まるで「人生の門番」のような感覚に陥る。門をくぐっていくのは依頼者で、こちらはその門を毎回掃除して整えるだけ。気づけば、自分はずっと門のこちら側に立ちっぱなしだった。
結婚、出産、相続……通過するのは他人ばかり
あるとき、若い夫婦が登記相談にやってきた。新婚らしく、言葉の端々に希望がにじんでいる。「登記が終わったら、引っ越して子どもができたら…」と夢を語る姿に、つい笑顔で対応していたが、内心はザワザワしていた。「この人たちは、これから人生がどんどん動いていく。俺は…?」と。相続登記でもそう。亡くなった人の想い、遺された家族の関係。そんな書類に向かいながら、自分に遺すものなんてあるのだろうかと、時折思う。
婚姻届の裏にある幸せな家庭像
登記簿謄本に反映される夫婦の共同名義。それを見るたび、「婚姻届を書いた日の二人の気持ちはどんなだったんだろう」と想像してしまう。自分には一度もなかったその経験。想像しかできないということが、じわじわと現実感を失わせていく。書類の中にある「夫」や「妻」という文字に、どこか別世界の響きを感じる日々が続く。
遺言の奥にある家族の歴史と絆
遺言書の検認や登記手続きをするとき、ただの形式的作業に見えるかもしれないが、そこには確実に「誰かの人生」が刻まれている。愛情、後悔、感謝、時には確執も混じっている。家族というものがこれほど複雑で、深く、重たいものであることを、他人の書類を通して何度も知った。しかし自分にはその「重み」さえ存在しない。ただ一人、事務所で書類を扱う日々に、重さは感じるが温度はない。
「おめでとうございます」の言葉が虚しい
登記が無事終わったとき、多くの場合「おめでとうございます」と伝える。形式的な意味であり、本心から祝福していないわけではない。だが、何度も繰り返すうちに、それは単なる「業務用語」になっていく。笑顔を作り、丁寧に言葉を選びながらも、内心では「何を祝っているんだろう」と、どこか空っぽになっている自分がいる。誰かの節目に関わるたび、こちらの時間が逆に止まっていく皮肉を感じてしまう。
笑顔で言いながら、心では冷めている
業務上の「笑顔」は必要不可欠だ。クレームを避けるためでもあり、安心してもらうためでもある。だが、その笑顔を作り続けるうちに、いつの間にか自分の感情が平坦になっていった。「ああ、またこういう案件か」としか思えなくなったとき、自分の感性の鈍りにゾッとした。感動する機会が減ったのではなく、感動できなくなっている。そんな状態で「おめでとう」と言うことの違和感が、心の奥にずっと残っている。
祝福を仕事として口にする日々
たとえば、マイホームの購入や会社設立など、依頼者にとっては一世一代の大事だろう。でもこっちは、毎日何件も処理している。だから感覚が麻痺する。祝福の言葉も「仕事としての定型句」となり、そこに気持ちが乗らないままになってしまう。自分の人生が動いていないからこそ、他人の喜びにも共鳴できなくなっているのかもしれない。
感情と業務の分離という名の自己防衛
もし毎回、本気で感情移入していたら、こっちの心が持たない。だから「分離」はある意味、必要な術だ。でもそれが続くと、自分の感情そのものがどこに行ったのか分からなくなる。何かを感じたとき、それをどう表現していいのかも忘れかけている。業務と感情を分けることは生き延びる手段だが、それが「感情の喪失」につながるとしたら、本末転倒だ。
それでも司法書士として踏みとどまっている理由
愚痴ばかり言ってはいるが、この仕事を辞めようと思ったことは正直あまりない。なぜかと言えば、「誰かの役に立っている」という実感があるからだ。直接的に「ありがとう」と言われなくても、手続きを通して信頼されていることは分かる。それが、自分にとってのかすかな誇りであり、生きている実感を得られる数少ない場面なのだ。
やりがいの正体は「自分の存在が必要とされる瞬間」
「この人がいないと手続きが進まない」――そんな瞬間に立ち会うことがある。専門職としての役割が明確に見えるとき、心のどこかで安心する。自分にも、まだ意味があるんだと感じられる。日々の虚しさの中でも、その一瞬があるだけで踏みとどまれる。それが司法書士という職業の、地味だけど確かな魅力だと感じている。
他人の人生に痕跡を残すという奇妙な満足
自分の人生が動いていないとしても、他人の人生に「関与した痕跡」は確かに残っていく。不動産登記簿に自分の事務所名が記載される。書類の片隅に、自分の押印が残る。それは静かな自己主張のようなものだ。他人の人生の片隅に、自分の存在が一瞬でも関わったという事実。それを積み重ねることが、日々の小さな満足になっている。
直接的な感謝ではなく、静かな信頼に支えられる
この仕事では、感謝されるより「信用される」ことが重要だ。相手は「この人なら大丈夫」と思って依頼してくる。それが伝わってくる瞬間があると、自分の存在意義を感じられる。派手な拍手や称賛はないけれど、静かで確かな信頼の空気がある。その空気に包まれるたび、「ああ、まだやれるな」と思う。そして今日もまた、誰かの節目に静かに立ち会う自分がいる。