年に一度だけ、救われる日 ― 司法書士という生き方の割に合わなさと、それでも辞めない理由

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年に一度だけ、救われる日 ― 司法書士という生き方の割に合わなさと、それでも辞めない理由

この仕事、本当に向いてるのかと悩む日々

司法書士という職業は、資格の響きだけは立派に聞こえるかもしれない。しかし、実際の業務はというと、地味で、目立たず、評価されにくい。周囲からも「士業だから安定してていいよね」と言われるけれど、その実情を知る人は少ない。地元でひとり事務所を切り盛りし、事務員一人と毎日格闘する日々。正直、毎朝「これ、向いてないんじゃないか」と思う瞬間がある。淡々と、でも確実に心がすり減っていくのだ。

朝の重さは誰にも見えない

目覚ましの音が鳴ったとき、まず最初に感じるのは「もう朝か」という絶望感。事務所に行けば、昨日のうちに終わらなかった書類が山積みになっているのがわかっている。開業した当初は希望もあった。でも今は、それよりもタスクに追われる日々の重さが勝る。事務所のシャッターを開けるときの気持ちは、まるで雨の中、傘を持たずに歩き出すようなもの。誰にも見えないし、誰にも伝わらないけれど、その一歩一歩がとにかく重い。

電話が鳴る前から気が重い

午前9時、事務所の電話が鳴りはじめる。出る前から胃が痛くなる。大体は急ぎの依頼か、すでに出した書類への問い合わせ。依頼者には悪気がなくても、その言葉が自分の疲れた神経を逆なですることもある。「まだですか?」「急いでもらえませんか?」そんな一言に、こちらの事情を考えてくれる余裕なんてあるはずもない。とはいえ、それが仕事。わかってはいるけれど、心が追いつかない日もある。

着信履歴=未処理案件の山

スマホを開くと、着信履歴がズラリと並ぶ。それを見るだけでため息が出る。そこには、こちらが「まだ処理できていない仕事」が可視化されている。ひとつひとつに丁寧に対応したいのに、どうしても“こなす”ような感覚になってしまう。焦るほどに、ひとつの案件に時間をかけられなくなり、さらに自己嫌悪に陥る。いつからこんな“自転車操業”になったんだろうと思い返す。けれど、答えなんてどこにもない。

「ありがとう」より「まだですか?」が多い現実

この仕事で一番堪えるのは、努力が報われたという実感がなかなか得られないことだ。誤字ひとつ許されない神経を削る作業の積み重ね。それでも返ってくるのは「で、いつ終わるんですか?」という催促ばかり。依頼者にとっては人生の大事な局面だし、急ぎたい気持ちはよくわかる。けれどこちらだって人間だ。感情がある。なのに、「ありがとう」と言われる瞬間は、年に何回あるだろう。数えるほどしかない。

感謝の言葉は、年に何回あるだろうか

「ありがとう」と言われたときのことは、案外よく覚えている。それくらい珍しいからだ。先日、亡くなったお母様の相続を担当した方が、涙を流しながら「本当に助かりました」と言ってくれた。その瞬間、不意に自分も泣きそうになった。たった一言の温度に救われることがある。普段は気づかないけれど、言葉には力がある。その力に支えられている部分が、実はかなり大きいのかもしれない。

丁寧にやっても、急がされる

こちらがどれだけ慎重に、丁寧に作業していても、「急いでます」「明日までにできますか?」の声は途切れない。書類の精度よりもスピードが優先されることも多い。間違いがあれば責任はすべてこちらに降ってくる。ギリギリの綱渡りをしながら、何とか正確に、何とか迅速に。だけど、「すごいですね」なんて言葉は期待してはいけない。この仕事、地味で、報われない。そして、やっぱり孤独だ。

年に一度の“救われる日”ってどんな日か

そんな中でも、なぜかやめずに続けている理由。それは「年に一度だけ、救われる日」があるからだ。多くは相続の手続きで出会う依頼者の中に、その瞬間はある。心からの「ありがとう」をもらったとき、ふと「やっててよかった」と思える。見返りを求めていたわけじゃない。けれど、ちゃんと誰かの役に立っていることを思い出せる瞬間が、この仕事にはある。それだけで、もう一年頑張ろうと思える。

相続の依頼者が見せた涙と「助かりました」の一言

ある日、相続登記の案件で、遠方から足を運んでくれた依頼者の女性がいた。高齢のお母様の遺産を整理しながら、気丈にふるまっていた彼女が、書類がすべて完了したときに、ポツリと「助かりました」と言って泣いた。机越しに見たその涙は、いまだに忘れられない。自分の仕事が、単なる書類処理ではなく、“人生の区切り”を支えるものだと実感した瞬間だった。あれは、まさに“救われる日”だった。

仕事で泣きそうになるのは、いつもこの瞬間

普段は淡々と、感情を押し殺して仕事をしている。それが司法書士という職業だと思っていた。けれど、依頼者のそうした感情に触れると、自分の奥のほうで何かが揺さぶられる。泣くわけにもいかず、笑うわけにもいかず、ただ「お疲れさまでした」と言うことしかできない。でも、その一言の裏には、いろんな想いが詰まっている。ほんの少しでも誰かの力になれた。そう思える日は、数少ないけれど確かにある。

大変でも、この日だけは報われた気がする

その日だけは、全部が報われたような気がする。いつもの電話の催促も、目まぐるしい処理も、残業も、全部「意味があった」と思わせてくれる。ただの自己満足かもしれない。でも、人間って結局、そういう小さな「報われた気がする」瞬間の積み重ねで生きていくんじゃないかと最近思う。年に一度で十分。それがあるなら、まだやっていける。少なくとも、私はそれで続けている。

感情を置き去りにする日常の中で

司法書士の仕事は、感情を押し殺すことの連続だ。正確さとスピードが求められる世界では、心の揺らぎは邪魔者だ。だけど人間は感情の生き物で、知らないうちに疲れも溜まっていく。ふとしたときに、それが爆発しそうになる。そんな日々の中で、“救われる日”は、忘れかけていた自分の気持ちを取り戻すきっかけにもなる。心が動く瞬間を、私は今も待っている。

書類に人間味はないけど、人間はそこにいる

扱うのは、紙。戸籍、住民票、登記簿…感情のない書類たち。でも、その向こうには必ず人がいる。人生がある。依頼者の背景にある物語に思いを馳せると、急かされても、嫌味を言われても、「なんとかしてあげたい」と思ってしまう。優しさなのか、ただのお人好しなのか、自分でもわからない。ただ、それが自分という人間の“らしさ”なんだと最近は思う。

無機質な業務の中にある、ほんの小さな温度

書類という無機質なものを通して、人の人生とほんの少し交わる瞬間がある。その瞬間の中に、確かに温度がある。たとえば、古い実印を差し出す手の震えとか、つぶやかれる「これで安心しました」の一言とか。そんな小さなものが、この仕事を支えている。そして、それがあるから、私はまだこの場所で生きていけている。

それでも続ける理由を、毎年思い出す

たった1日。それだけなのに、なぜかやめられない。やめようと思ったことも、何度もある。でも、そのたびに思い出すのは、あの涙とあの言葉。「救われる日」が、またいつか来るかもしれないという希望。それだけを頼りに、また明日も机に向かう。世間から見たら割に合わない仕事かもしれない。でも、私にとっては、十分すぎる一日なのだ。

「やっててよかった」は1回で十分なのかもしれない

1年に1回。それだけでまた1年を過ごせるなら、それはもう奇跡みたいなもんだ。期待しすぎると裏切られるけれど、まったく期待しないと心が枯れる。そのちょうどいいバランスを保つのが難しい。でも私は、1年に1回でも「やっててよかった」と思える日があるなら、それでいいんじゃないかと思うようになった。

その1回が、次の365日を支えてくれる

「やっててよかった」という感覚は、普段のどんな努力よりも強い支えになる。何度も折れそうになる心に、ふと湧いてくる“続けよう”という気持ち。結局、そういう一瞬が、次の365日を支えるんだと思う。士業という肩書きよりも、誠実に向き合った日々の積み重ねが、自分をつくってくれる。だから、今日もまた、書類と格闘する。

報酬よりも、心が折れないことの方が大事だと思った

お金のためにやってるんだろ?と聞かれることもある。でも、違う。正直、割りに合っていないと思うことは多い。でも、心が折れなければ、続けられる。続けられれば、また“救われる日”に出会える。報酬よりも、心が折れない日々のほうがずっと大事だ。そんなふうに思えるようになった自分を、少しだけ誇りに思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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