仕事に打ち込んできたつもりだった
「この仕事が好きだから」「責任があるから」。そう言い聞かせて、がむしゃらに走ってきた。朝から夜まで働くのが当たり前で、疲れても、家に帰れば寝るだけ。そうしているうちに、気づけば何年も同じルーティンの中にいた。楽しいこともあったし、やりがいも感じていたけれど、ある夜、ふと気づいた。今日誰とも目を合わせていない。誰とも笑っていない。ただ、PCと登記簿と会話をしている自分がいた。
恋愛より先に締切がやってくる
恋愛なんて、社会人になったら自然と訪れるものだと思っていた。でも実際は、恋より先にやってくるのは「申請期限」や「登記完了予定日」。電話が鳴ればそれに出るし、夜の飲み会より書類の確認を優先してしまう。以前、同級生との飲み会に誘われたが、「決済があるから」と断った。そうやって自分の世界を狭めていたことに、そのときは気づけなかった。
休日のLINEはクライアントからだけ
友達からのLINEはめっきり減った。通知音が鳴ると、ほとんどがクライアントからの問い合わせか、金融機関からの事前確認。日曜日の昼下がり、コーヒー片手にふとスマホを見ると、「先生、来週の登記の件で…」という文字が並んでいる。気がつけば、プライベートと仕事の境界がすっかり溶けていた。
話し相手は依頼人と事務員と郵便配達員
今日話した人を思い出すと、依頼人と事務員、そしていつもの郵便配達のおじさん。その3人で終わる日も珍しくない。ランチは事務所でコンビニのおにぎりをかじりながら、目の前の書類をチェック。人恋しいと思いながら、でも自分から誰かに連絡する気力もない。そんな日々が、まるで当たり前のように流れていく。
「忙しい」は寂しさを隠す魔法の言葉だった
「最近どう?」「相変わらず忙しいよ」。このやり取りを、何百回繰り返してきたかわからない。便利な言葉だ。「忙しい」と言っておけば、誰もそれ以上踏み込んでこない。実際、忙しいのは事実。でも、その裏にあるのは、寂しさや空虚さ、どうしようもない不安だったりする。だけどそれを正直に話す相手が、思いつかないのが現実だ。
予定がないよりマシだと信じた
手帳のスケジュールが真っ白だと、なんだか自分が否定されたような気になる。だから、意識的に予定を詰め込む癖がついた。誰かとの約束ではなく、すべて仕事。自分に言い訳をするための予定。空っぽの部屋に帰るくらいなら、仕事してた方がマシ——そんなふうに思い込んでいた。
仕事に逃げる癖はいつからついたのか
きっかけは覚えていない。でも気がつけば、嫌なことがあると「今日は仕事があるから」と逃げるようになっていた。失恋した夜も、親との関係に悩んだときも、仕事をしているふりをして乗り切ってきた。ふり、というのがポイントだ。実際には集中できていないのに、何かしているように振る舞うことで、心の穴をごまかしていた。
元野球部で声だけはデカいけど
高校までは野球一筋。声出し、筋トレ、早朝練習。あの頃は仲間がいて、誰かと並んで走っていた。でも今は違う。声だけはまだ通るけど、それを聞いてくれる仲間はいない。人前で話すのも苦ではないはずなのに、気づけば誰とも深い話をしていない自分がいる。あの頃の汗と笑い声が、どこか遠いものになってしまった。
グラウンドでは叫べても誰かを誘うのは苦手
部活のときは自然に声が出せた。仲間を鼓舞する、相手をけん制する、監督にアピールする。でも、大人になってからは違う。誰かを飲みに誘う、恋愛のアプローチをする、愚痴をこぼす。そういった“心を開く声”が、なぜか出せない。グラウンドの大声は出せても、本音の一言が言えない。それが、自分の今の課題かもしれない。
男だけの部活の延長がいまだに続いている
女っ気のない毎日。学生時代は「今は野球が恋人」とか言って笑っていたけど、その延長線上にずっといる感じがする。女性との接点がほとんどないまま、気がつけば40代中盤。紹介も断ったりしてきた。「今は忙しいから」と。そう言いながら、本当は面倒だったり、傷つくのが怖かっただけだったのかもしれない。
話し方が堅苦しいのはクセです
仕事柄、自然と敬語や丁寧な表現が染みついてしまった。だからプライベートでも「了解しました」「ご確認ください」なんて言ってしまう。冗談を言ったつもりが、まったく伝わらない。笑いが欲しいのに、壁ができる。もう少しくだけた話し方ができたら…と反省するけれど、なかなか直せない。
仕事が恋人という言葉に救われているふり
「仕事が恋人なんで」って冗談っぽく言う。でも、言った後に少し虚しくなる。そんなことを口にするたびに、自分に暗示をかけているような気がする。仕事が恋人であってほしい、そう思わないとやっていけない夜がある。特に、寒い夜や年末年始。人恋しさを押し込めるための一言だった。
そうでも言わないと心が持たない
朝から晩まで働いて、書類に囲まれて、帰宅して一人飯。そんな日常に慣れすぎて、ふと我に返ると寂しさが襲ってくる。だからこそ、「仕事が恋人」という言葉を盾にしている。それを言っている自分が一番寒いのに、それでも言いたくなる。誰にも頼れないとき、人はそうやって自分を守ろうとするんだと思う。
他人の幸せの書類ばかり処理している日々
婚姻届、相続登記、新築の所有権移転。誰かの人生の節目に関わる仕事だ。もちろん誇りもある。でも、時折感じるのは、自分がその「幸せの書類」の外側にいること。新しい人生を始める人たちの背中を見送りながら、自分には何も変化がない現実に、言いようのない疎外感を覚える。
戸籍を見すぎて家族ってなんだと考えるようになった
日々、他人の戸籍を見ていると、家族のあり方に敏感になる。離婚、再婚、養子縁組。さまざまな人生模様が並ぶなかで、自分の戸籍はただの空欄ばかり。誰とも繋がっていないページを見るたび、胸がチクリとする。でも、それもまた自分の選んだ道。そう言い聞かせながら、今日も書類を閉じる。
それでも続けている理由がある
どれだけ疲れても、どれだけ孤独を感じても、この仕事を辞めようとは思わない。人の人生に関われるありがたさ、信頼してくれる人の存在、そしてたまに届く「ありがとう」の一言。それが、冷えた夜を少しだけあたためてくれる。仕事に救われた自分だからこそ、今日もまた書類に向かう。
やっぱりありがとうの一言はうれしい
クールに仕事しているふりをしても、「助かりました」「先生にお願いしてよかったです」と言われると、やっぱりうれしい。誰かの困りごとを解決できた実感があると、心がじんわり温かくなる。だから、これまで頑張ってこれたのかもしれない。人に頼られるって、やっぱり悪くない。
地味だけど誰かの人生に寄り添える仕事
司法書士の仕事は派手さはない。でも、確かに人の人生の分岐点に立ち会っている。その信頼に応えるために、自分なりに誠実に向き合ってきた。報われないこともあるし、理不尽なこともあるけれど、根底には「誰かの役に立ちたい」という思いがある。それが、この仕事を続ける原動力だ。
同じように頑張る誰かの夜を少しだけあたためたい
この文章を読んでいる誰かも、きっと似たような孤独を抱えているのだろう。僕もそうだ。だけど、ひとりじゃない。誰かがどこかで同じように頑張っている。そんな思いが、ほんの少しだけ心を軽くしてくれる。仕事が恋人だなんて、もう言いたくないけれど——それでも今日も僕は、誰かのために書類を整えている。