幸せな話にモヤモヤする日常
「結婚しました!」「子どもが生まれました!」そんな投稿を見るたびに、胸の奥に重たいものが残る。心から祝福したい気持ちはあるのに、どこか素直になれない自分がいる。司法書士という仕事は、人生の転機に関わる場面が多いけれど、それゆえに他人の幸せと直面することも多い。自分の生活にふと目をやると、冷えた弁当と未処理の書類。ああ、また一人の夜かと思うと、モヤモヤは募るばかりだ。
なぜか素直に祝えない自分がいる
知人の幸せな報告に「おめでとう」と返したものの、どこかで冷めた自分がいた。その瞬間、心の奥底にある「取り残された感覚」が顔を出す。祝っているふりをしながら、自分の人生と比較してしまう。別に不幸なわけじゃない。仕事もあって、生活もできている。けれど、何かが欠けている感覚が、そういう話を聞くたびに浮き彫りになるのだ。
「よかったね」と言いながら心がざわつく
先日、地元の同級生が子どもを連れてうちの事務所に来た。笑顔で「2人目なんですよ〜」と話す彼女の横で、私は登記書類に目を通しながら曖昧に笑っていた。「よかったね」そう口にしたが、なぜか心がざわつく。自分には絶対に手に入らないものを見せられたようで、目の前の書類に視線を戻すしかなかった。
比較してしまう自分とのギャップ
比べたくないと思っても、年齢や状況が近ければ近いほど比較してしまう。あの人は家族がいて、週末にはBBQ。私は土曜の夕方も事務所にこもって戸籍の束と格闘している。自分で選んだ道のはずなのに、どこかで「失敗だったのか?」と考えてしまう。結婚しない人生を選んだわけではない。ただ、気づけばこうなっていただけなのだ。
心のどこかで「自分は違う」と思いたい
人の幸せを見て羨ましくなるとき、心の中で無理に理由をつけようとする。「自分は自由を選んだ」「責任が重すぎるのは向いていない」そんなふうに思い込もうとするのは、自分を納得させるための防衛本能だ。だが実際は、その言葉すら虚しく感じる時もある。誰かと並んで笑う未来を、まだどこかで期待しているのかもしれない。
選んだ道のせいにしてしまう癖
「司法書士だから仕方ない」そんな言い訳が口癖になっていないだろうか。確かにこの仕事は忙しいし、余裕もない。だけど、本当に忙しさだけが理由だろうか。自分の選択に責任を持つのは大人として当然だが、その選択を盾にして心の本音を押し殺すのは、少しずるい気がしてしまう。そうやって自分に嘘をつく日々が、さらに孤独を深めていく。
司法書士という職業が持つ孤独
司法書士の仕事は基本的に一人で完結することが多い。登記のチェック、書類作成、申請。誰かと協力して進めるというより、ミスなく黙々と積み重ねる仕事だ。人と深く関わる仕事なのに、実はものすごく孤独だ。そんな環境に身を置いていると、ふとした瞬間に「誰かと一緒に生きている」という感覚に飢えている自分に気づく。
司法書士という仕事と「幸せ」との距離
他人の幸せな出来事に立ち会う機会が多い分、自分とのギャップが際立って感じられる。登記や相続、結婚や離婚。そのすべてに立ち会うたび、誰かの人生の節目に触れる。そのたびに「自分は?」という問いが心をよぎる。まるで人生の劇場で裏方に徹しているような、そんな立場に疲れを感じるときもある。
「おめでたい」話と「こっちは補正通知」
「結婚式でね〜」「子どもが小学校に〜」そんな話を聞いていた矢先、法務局から届くのは補正通知。相手が晴れやかに話す一方で、こちらは焦って補正作業に追われる。日常があまりにも違いすぎて、まるで自分だけ別の時間を生きているように感じる。祝う余裕もなければ、心を整える隙もない。こんな生活が何年も続いている。
日常が祝うムードじゃない
事務所の空気は常に緊張感が漂っている。ミスは許されない、期限は待ってくれない。そんな中で、人の幸せを祝うテンションには到底なれない。祝うという行為は、ある種の余裕の中に存在するものだ。その余裕がない日常では、他人の幸せは時にプレッシャーとなってのしかかってくる。
感情を殺すのが習慣になっている
感情を出すことが業務に支障をきたす場面もある。だから、いつの間にか感情を殺すのが習慣になっていた。感動も怒りも、喜びも、そして羨ましさも、蓋をしてしまう。その結果、自分の中で「羨ましい」という感情がくすぶり続け、たまに爆発して自己嫌悪になる。冷静を装いながら、実は誰よりも感情に振り回されているのかもしれない。
「忙しさ」で埋めてきたものの中身
「忙しいから」と言い訳して、見ないようにしてきたものがある。それは、自分の本音だ。誰かと過ごす時間を望んでいたこと、誰かに必要とされたいと願っていたこと。それらを見ないふりして、登記簿に没頭していた。だが、ふと一段落したとき、心にぽっかり空いた穴に気づく。忙しさでは埋められない穴が、確かに存在していた。
人と向き合うより登記と向き合ってきた
人と向き合うのは、思った以上にエネルギーがいる。だからこそ、登記の世界のほうが安心だった。ミスは許されないが、感情の起伏はない。淡々と処理する世界。でも、その「安心」は、本当に自分の望んだ人生だったのだろうか?登記に向き合うことで、誰かと向き合うことを避けてきたのかもしれない。
それでも今日も机に向かう理由
羨ましさを感じながらも、それでもこの仕事を続けている。それは、この仕事が「誰かの幸せの裏方」であるからだ。表舞台には立てなくても、誰かの人生の節目を支える役割に意味を感じている。羨ましいと思う気持ちも、自分がまだ何かを望んでいる証拠。だからこそ、机に向かい続ける。それが自分なりの生き方なのだ。
人の幸せを支える側としての役割
登記や相続、名義変更など、すべては誰かの人生の「区切り」に関わっている。その節目をスムーズに乗り越えられるように、陰で支えるのが私たち司法書士の役目だ。羨ましいと思いながらも、結局その「幸せ」の一部に携われているのなら、それはそれで悪くない。そう思える瞬間も、たまに訪れる。
登記の向こう側にある人生の節目
一つの登記には、それぞれの人生のストーリーがある。新居購入の登記の裏には、家族の未来への希望がある。相続登記の裏には、残された人の悲しみと新たなスタートがある。それらを想像できたとき、少しだけ自分の仕事に誇りが持てる。羨ましい気持ちも、役に立てている実感に変わる瞬間だ。
羨ましさを糧にする生き方
羨ましいと思う気持ちを否定せず、正直に受け止めること。それができるようになってから、少しずつ心が軽くなった気がする。羨ましさは、まだ自分に希望がある証拠だ。ならば、その感情を否定せず、次に進むエネルギーに変えていけばいい。司法書士として、人として、もっと自分を認めて生きていけたらと思う。