自分のことがよくわからなくなる

自分のことがよくわからなくなる

自分のことがよくわからなくなる日々の中で

地方で司法書士をしていると、日々の業務に追われるばかりで、自分が何者なのかをふと見失う瞬間がある。朝から電話、午後は金融機関との調整、夕方には役所へと奔走するうちに、気づけば一日が終わっている。そうして、ふと立ち止まったとき、自分の中にぽっかりと空洞があるような感覚に襲われることがあるのだ。何をしたくてこの仕事を始めたのか、なぜ今も続けているのか、自問しても明確な答えが出ない。こんなこと、みんなもあるんだろうか。

「忙しさ」に隠れて見失っていたもの

毎日が忙しいのはありがたいことだ。だが、その「忙しさ」が、考える余裕を奪ってしまっている。次の案件、次の申請、次の書類…そうして走り続けているうちに、気づけば、自分が何を大事にしていたかもわからなくなっていた。昔は、依頼者の「助かった」という笑顔が何よりの励みだったはずなのに、最近は「とにかく終わらせる」ことばかり考えてしまう。仕事が多いことは、たしかにありがたい。でも、それが自分をすり減らしていく感覚もまた、否定できない。

目の前の書類に追われる毎日

司法書士の仕事は書類との戦いだ。登記簿、委任状、住民票、印鑑証明…次から次へと片づけなければならない。特に相続登記なんて、ひとつ間違えれば全体がやり直しになる。集中力が求められるし、ミスは命取りだ。そんな緊張感の中で、ふと、「これって自分じゃなくてもできるのでは?」という考えが頭をよぎる。誰がやっても同じ結果が出るなら、じゃあ“自分”がやる意味って何だ?と。そんなとき、余計に自分を見失ってしまう。

仕事をこなしても残る“虚しさ”

1日に5件、10件と案件を処理しても、なぜか達成感が薄い。たしかに報酬は入るし、依頼人にも感謝される。でも、それが自分の心を満たしてくれるかというと…正直なところ、そうでもない。事務所を出て、夜道を歩きながら「今日、自分は何をしたんだろう」とぼんやり思う。仕事をしていても、していなくても、どこか心が置き去りになっているような感覚がある。昔はもっと情熱を持っていた気がするのに、それもどこかに置き忘れてきた。

「司法書士としての自分」って誰だ?

気がつけば、僕は「司法書士」という肩書だけで成り立っているような気がしていた。周囲の人も、僕を「稲垣先生」と呼び、僕もその役割を自然に演じるようになった。でも、それが自分自身なのかと問われると、うまく答えられない。仕事はできる。でも、それ以外の自分がどこにいるのか、わからない。仕事以外の場面で、自分をどう紹介すればいいか困る瞬間が増えてきた。

肩書が自分を作る感覚

「司法書士である自分」と「ただの自分」の差がどんどん大きくなっていく。街で誰かに会えば「先生、お世話になります」と言われる。でも、そんなとき、心の中では「先生なんかじゃない。ただの疲れた中年だ」と思っている。肩書を外したとき、自分には何が残るんだろう?という問いが、最近やけに重たくのしかかってくる。だからこそ、仕事に逃げるしかなくなる。肩書が自分を支えているようで、縛っているのかもしれない。

専門家なのに、自信が持てない瞬間

この仕事をしていても、自信を失うことはある。自分より若い司法書士がSNSで活躍しているのを見ると、「自分は何をしてきたんだろう」と思わずにいられない。昔なら、経験で勝負できた。でも今は、情報発信力や人脈の時代。正直、そういうのは得意じゃない。だからこそ、「本当に自分はこのままでいいのか?」という不安がつきまとう。知識はあっても、それが「価値」になっていない気がして、落ち込む夜もある。

プライベートという名の空白地帯

仕事を終えて帰宅しても、迎えてくれる人はいない。テレビをつけて、適当なコンビニ弁当を食べて、また次の日の準備をするだけ。趣味といえるようなものもなく、休日に何をしていいのかわからない。スマホを触っていても、気づけば1時間が過ぎている。そんな時間を過ごしていると、「自分って本当にこれでいいのか?」という疑念がむくむくと湧いてくる。プライベートが空っぽだと、ますます“自分”がぼやけてしまう。

帰っても「自分」がいない部屋

事務所を閉めて家に帰ると、そこには静かな部屋があるだけだ。ふと、何か話しかけたくなることがあるけれど、相手はいない。テレビやラジオをつけて紛らわせても、空虚感は消えない。誰かと一緒に夕食を囲む、そんな当たり前の風景すら、僕には遠い。昔は「仕事が落ち着いたら誰かと…」と思っていたけれど、その“誰か”は現れなかった。気づけば、独りに慣れてしまっていた。

誰かと一緒にいたいのに

結婚したかった。素直にそう思う。でも、どうしていいのかわからなかった。仕事が忙しいから、と言い訳していたけれど、本当は自信がなかったのかもしれない。女性との会話の仕方も、距離感も、全部わからないまま年を取ってしまった。たまに婚活サイトを見ても、「自分なんかが…」と思って閉じてしまう。誰かと一緒にいたい気持ちはあるのに、その一歩が踏み出せない。年を重ねるほど、それは難しくなっていく。

モテないことに慣れてしまった自分

昔から、モテた記憶がない。でも、それを笑いに変える余裕もない。高校時代、バレンタインに一度もチョコをもらったことがなくて、それが今も自虐ネタとして染みついている。大学でも、社会人になってからも、恋愛らしい恋愛はしてこなかった。だから、恋愛や結婚の話になると、話題についていけない。自分には関係ないと、どこかで諦めている。けれど、本音では「羨ましい」と思っているのだ。

趣味?余裕?そんなものはない

世の中には、趣味や余暇を楽しんでいる人がたくさんいる。ランニング、キャンプ、読書、映画鑑賞…。でも、自分には「楽しむ」という感覚すら薄れてしまっている。何かを始めようとしても、面倒くささが先に来てしまうのだ。「そんなことしてる暇があったら寝たい」と思ってしまう時点で、もう疲れ切っている証拠だろう。楽しいことを楽しいと感じられる余白が、今の自分にはない。

「楽しまなきゃ」の圧がしんどい

SNSを見れば、「休日に〇〇してきました!」という投稿が並ぶ。まるで、楽しんでいない自分が悪いかのような気分になる。「楽しんでない=ダメな大人」みたいな空気が、時々しんどい。無理にでもどこかへ出かけなきゃ、何か始めなきゃと焦る。でも、やっぱり何もしたくない。疲れてるし、そもそも何をしても心が動かない。こんなふうに感じている自分が、どんどん「わからない存在」になっていく。

時間の使い方がわからない大人

もし丸一日自由な時間があったら、何をする?と聞かれても、答えられない。掃除?寝る?それともただボーッとする?子どもの頃は、「将来はこんな大人になりたい」と夢があった。でも今、自分がその“理想の大人”になっているかというと、首をかしげるしかない。むしろ、自分よりずっと年下の人のほうが、よほど自分らしく生きているように見える。時間の使い方すら忘れてしまった大人って、なんだか切ない。

それでも、何かを信じたい

こんなふうに迷いながらも、それでも前に進もうとしている自分がいる。誰かの役に立てたとき、ほんの少しでも感謝されたとき、それが心の支えになる。自分のことがよくわからなくても、目の前の誰かのために動くことで、少しずつ輪郭が見えてくる気がする。完璧じゃなくてもいい。間違っても、悩んでも、自分なりにやっていく。それがきっと、僕なりの答えなのだと思う。

同業者のSNSが刺さる夜

ある夜、Twitterで同業者の投稿を見てしまった。「今日は依頼者から泣いて感謝されました。司法書士やっててよかった!」みたいなやつだ。見なきゃよかった、と思いながらも、スクロールを止められない。どんどん自信が削られていく。「自分はこんなに疲れてるのに、なんであの人は輝いてるんだろう」と比較してしまう。でも、画面の向こうの人生がすべてじゃない。それもわかってる。わかっていても、落ち込む夜はある。

「みんな充実してるなぁ」と落ち込む

たとえば休日の投稿で「今日は自然に癒されてきました~」なんて写真を見ると、自分の部屋の散らかった床と比べて情けなくなる。「なんでこんなに差があるんだろう」って。でも、それは他人の“見せたい面”を見てるだけで、実際の生活は違うかもしれない。頭ではわかってる。でも心はそう簡単に割り切れない。比べない、と決めても比べてしまうのが人間なのだろう。とくに、自分に自信がないときは。

比べても仕方ないとわかってるけど

「自分は自分」「他人は他人」。そう思おうと何度も言い聞かせてきた。でも、比較癖はなかなか治らない。ましてや、同じ業界で働いている人たちがキラキラしていると、自分のくすみが目立って仕方ない。でも、最近少しだけ思うようになった。人と比べて勝つためじゃなくて、自分を納得させるために仕事をしてきたはずだと。誰かの期待じゃなく、自分の内側から湧き上がる納得感。それを大事にしたい。

少しずつ見えてきた“自分なり”の輪郭

完璧な人なんていないし、モヤモヤする時間があってもいい。そう思えるようになってきた。司法書士として、人として、迷いながらでも前を向くこと。それが今の自分には必要なんだと思う。自分を見失っても、また探せばいい。失った分だけ、何か新しいものが見つかるかもしれない。焦らず、比べず、自分のペースで。そんなふうに歩いていけたら、それがきっと“自分らしさ”なんだと思えるようになった。

悩むことは悪いことじゃない

「悩むのは甘えだ」と言われたことがある。でも、今ではむしろ逆だと思う。悩むというのは、真剣に生きようとしている証だ。何も感じなくなってしまったら、それこそ危険だ。だから、今のこの状態を否定するのではなく、「ちゃんと自分と向き合っている」と認めることにしている。完璧じゃなくていい。立ち止まってもいい。ただ、それでも諦めずに考え続けること。それが、自分のことをわかろうとする第一歩になる気がする。

誰かの役に立てたときに感じるもの

つい先日、ある依頼者から「先生がいてくれて助かりました」と言われた。その一言で、一週間分の疲れが吹き飛んだ気がした。派手な仕事じゃないし、感謝されることも多くはない。でも、たまにこういう瞬間があるから続けられているんだと思う。誰かの人生の一場面に関われる。その重みを、改めて感じるようになった。もしかしたら、自分の存在価値はそこにあるのかもしれない。まだ自分のことはわからないけれど、少しだけ輪郭が見えてきた気がする。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。