パンだけの夕食に込められた、誰にも気づかれない疲れ
「今日はパンだけでいいか」。この一言に、どれだけの疲れや諦めが込められているか、自分でもうまく言葉にできない。ただ面倒だっただけじゃない。料理をする気力も、温める気力もなく、何かを選ぶことすら面倒だったのだ。司法書士という仕事柄、日々のプレッシャーや確認の連続に神経を削られる。夕方、最後の登記が終わったときには、もう何も考えたくなかった。食事も含めて。
ちゃんと食べる余裕がない日の現実
「なんか食べた?」と聞かれて「パンだけ」と答えるのは、少し恥ずかしい。でも、これはよくあることだ。忙しいのを理由にしているようで、実際は気力が尽きているだけの日も多い。食事は生きる基本だけど、心が限界に近いと、もうどうでもよくなってくる。外食すら面倒で、コンビニで手に取ったパンが、今夜のすべて。噛みごたえのないそのパンが、自分の状態をそのまま映しているように思えた。
空腹よりも先に眠気が来る
空腹は感じている。でもそれよりも強烈なのは「寝たい」「横になりたい」という欲求だ。よく「腹が減っては戦はできぬ」なんて言うが、戦を終えたあとの兵士は、とりあえず横になりたくなるのではないか。登記完了のチェックリストを終えた瞬間、机に突っ伏したくなることがある。食事は、もういいやと。そんな夜が週に何度もある。
「もうなんでもいいや」と思う瞬間
一人暮らしで誰に見られることもなく、誰かに料理を出すわけでもないと、食の質はどんどん落ちる。「もうなんでもいいや」そうつぶやいたときには、選択肢はパン、もしくはおにぎり。袋から出してすぐ食べられるもの。たったそれだけを買ってレジを通過するとき、なんとも言えない虚しさに襲われる。でも、もうそれすら考える気力が残っていないのだ。
コンビニの袋パンが、今日一日の象徴
その日、自分で買ったのは「チョコチップ入りの甘いパン」。普段なら手に取らないそれを選んだのは、きっと自分への慰めだったのかもしれない。安くてすぐ食べられて、ほんの少しだけ「甘さ」が心を落ち着けてくれる。それだけの理由。でもその袋を机に置いた瞬間、「ああ、今日もこうして終わるんだな」と思った。パンの柔らかさと、割り切れなさが、今の自分を表していた。
レジ横のホットスナックすら迷った
本当はレジ横の唐揚げが少し気になっていた。でも、誰かの視線や、余計な出費を考えると、手が伸びなかった。数百円を惜しむほど切羽詰まっているわけではない。ただ、そのひと手間、その追加注文すらも億劫なのだ。自分でもよくわからない。合理的な理由なんてない。ただただ、面倒だった。それが全て。
それでも買わなかった理由
理由は単純、「誰に見せる食事でもないから」。パンひとつで済ますことができるなら、それが一番ラク。そんな合理性を、自分に無理やり納得させる。お湯を沸かすのも、冷蔵庫を開けるのも、今日は面倒だった。そんな日は、パンひとつにして正解だったと思いたい。でも、やっぱりちょっと、情けなくなる。
仕事があるのはありがたい、けれど
日中はひっきりなしに電話が鳴り、メールも依頼も途切れない。事務員さんに手伝ってもらいながらも、結局一人で抱える部分も多い。ありがたいことだ、と思う反面、自分のキャパを超えかけている感覚もある。忙しい=幸せ、とは限らない。仕事の量に感謝はしている。でも、それに見合うだけの心のゆとりがない日々に、少しずつすり減っていく自分がいる。
「忙しい=幸せ」だと自分に言い聞かせる
周囲には「忙しくて大変だね」と言われることもあるが、それを素直に「うん、大変だよ」と言うことはできない。心のどこかで、「忙しいことはありがたい」「暇なよりはマシ」と思い込もうとしている自分がいる。司法書士という職業は、信頼あってこその仕事。依頼が減る不安は常にある。だからこそ、どんなに疲れていても「ありがたい」と呟くしかない夜もある。
依頼が多いことへのありがたさと矛盾
確かに依頼が多いことは喜ばしい。けれどもそれが「自分を押し潰す重さ」になることもある。人の人生や財産に関わる責任の重さは、時に胃にくる。締切、書類ミスの恐怖、確認不足のプレッシャー。依頼が多い=信用がある。でも、それを一人で回していくには限界がある。ありがたいけれど、しんどい。それが本音だ。
本当に欲しいのは「安心できる余白」
きちんとした食事、誰かとの会話、予定のない休日。そんな「当たり前の余白」が、今の生活にはなかなか存在しない。パンひとつで済ませた夜にふと思うのは、時間の問題だけじゃないということ。誰かと向き合う気力も、食事に向き合う気力も、削られているのだ。仕事に追われる自分に必要なのは、「余白」だったのかもしれない。
事務員さんに救われる日もある
事務員さんがいてくれることで、どれだけ助かっているか。細かい書類整理、電話応対、気づきの共有。助けられてばかりだ。でも同時に「雑談」や「相談」はできない。仕事上のパートナーであり、それ以上でも以下でもない。その距離感は大切にすべきだが、やはりどこかで、孤独を感じてしまうのも本音。
でも話し相手にはなってくれない
一日の最後、ふと雑談でもできたらと思うことがある。「今日は疲れましたね」とか、「最近暑いですね」だけでも。けれど相手にも生活があり、立場があり、そう簡単にはいかない。こちらが勝手に求めているだけだ、と分かっていても、やっぱり少し寂しい。誰かと話したい、それだけの気持ちが言えず、今日もパンをかじる。
それが普通。でもちょっと寂しい
仕事上の関係に過剰な期待をしてはいけない。それはわかっている。でも、同じ空間で一日を過ごしていても、心が交わらないことに、ふとした寂しさを覚えることがある。笑顔で「お疲れ様です」と言われるだけで救われる。けれど、本当はもう一言、誰かの言葉がほしい。そんな夜に、パンだけの食事が、ますます孤独を際立たせる。
「食」に向き合えない自分を責めてしまう夜
パンだけの食事が続くと、「ちゃんとした生活を送っていない」ような気がして、自分を責めてしまうことがある。食は生活の鏡だと思う。簡単に済ませるという選択が、何かを放棄しているようで、どこか情けない。でも、「しんどいから今日はこれでいい」と思えるようになるには、時間がかかった。完璧を求めすぎていたのかもしれない。
ちゃんとした食事をとることのハードル
自炊をすれば健康にも財布にも優しい。それはわかっている。けれど、仕事を終えて帰宅したあと、台所に立つ気力がわかない日がほとんどだ。買い物に行くのも面倒、洗い物はもっとイヤ。そんなふうに思ってしまう夜が増えてきた。年齢のせいもあるのだろう。体は正直に、疲れを伝えてくる。
自分を労われない人が、他人に尽くしている矛盾
登記に来る依頼者には、「手続きをミスなく進めましょう」「安心してください」と伝える。でも自分の生活は、安心どころか、ぎりぎりのところでなんとか回しているような状態だ。誰かのためにきちんと仕事をしているのに、自分のことはどこか後回し。この矛盾に気づくたび、もう少し自分にも優しくしたいと思う。でも、それがなかなかできないのだ。
誰かの登記はきちんと進めるのに
どれだけ疲れていても、他人の登記や手続きにはミスをしないように気を張っている。プロとして、それは当然のこと。でもふと、自分の健康や心の余裕に対しては、ものすごくルーズだと気づく。誰かの大事な書類には神経を使うのに、自分の夕食は袋パン一つ。そんなバランスの悪さを、どうにかしたいとは思っている。
自分の食生活すらまともに守れない
司法書士として、責任ある仕事をしている自負はある。でも一方で、「今日何食べた?」と聞かれて答えられないような日常が続くのは、やっぱりどこかおかしい。もっと丁寧に暮らすことも、実は大事な業務の一部かもしれない。そんなことを考えながら、今日もまた、パンの袋をゴミ箱に押し込む。