気づけば恋愛ドラマにイライラしている自分がいる
最近、テレビで流れる恋愛ドラマにまったく共感できなくなった。昔はキュンとくるようなセリフに「いいなぁ」と素直に感じていた気がするのに、今では「そんな暇あったら事前通知書のチェックでもしてろ」と心の中で毒づいてしまう。年齢のせいなのか、職業のせいなのか、それとも人生に期待しすぎなくなっただけなのか。とにかく、恋愛に心が動かなくなっている。
昔はキュンときてたセリフが今は寒気のもと
「俺が守る」とか「お前だけは離さない」とか、よくある恋愛ドラマの決めゼリフ。若い頃はそんな台詞に胸をときめかせていたはずなのに、今となってはどこかの不動産契約書に書いてありそうな文言に聞こえてしまう。実務で日々、冷静かつ論理的な文章ばかり目にしているせいか、感情に訴える言葉には疑いのフィルターがかかる。
「愛してる」より「納期に間に合ってますか?」の方が刺さる
あるとき、事務員が「来週の登記申請、納期に間に合いそうですか?」と聞いてきた。その言葉に、なぜか胸がじんとした。誰かに気遣ってもらえること、それも現実的な文脈で、が今の自分には一番響く。恋の言葉ではなく、日常の確認こそが今の心を動かすというのは、少し寂しいけれど確かな事実だ。
日々の業務に心を奪われすぎた副作用
業務に追われていると、自分の感情の起伏を感じ取る余裕がなくなる。朝から晩まで依頼者対応、登記申請、法務局とのやり取り。そんな生活を何年も続けていると、感動やときめきといった感情はすり減っていく。気づけば「ロマンチックな話」が苦手というよりも、「余計な感情」が処理できなくなっていた。
司法書士という仕事がロマンを削いでいく
司法書士という仕事は、極めて現実的で、感情よりも事実と手続きが優先される世界だ。恋愛のような不確かなものより、登記完了証のような確かなものに囲まれていると、自然とロマンとは距離ができていく。たまに「自分も恋愛したい」と思っても、次の瞬間には「まずは登記が先」と我に返ってしまう。
現実しか見えない職業病
恋愛を語る友人の話を聞いていても、思考がつい現実的な方向に行ってしまう。「彼女と結婚したいって?じゃあ共有名義にするの?」とか、「相続の準備は大丈夫?」とか、普通の人が聞かないような視点で話を捉えてしまう。そういう視点が習慣になってしまうと、恋愛そのものをピュアに楽しむということが難しくなる。
登記簿を見ながら「この人たち、離婚しないといいけど」と思う
夫婦の共有名義で登記された物件を見ると、「あぁ、このカップルは本当に大丈夫だろうか」と余計な心配をしてしまう。書面上のつながりが強くなればなるほど、もし別れるときに大変になることも知っているからだ。そんな考えが先に立ってしまうと、恋愛=リスクという印象がどんどん強くなってしまう。
書類に囲まれて育つ恋愛観とは
登記、契約、証明書。日々扱うのは感情のない書類ばかり。それらを相手にしていると、人と人との関係もつい「形式的なつながり」として見てしまう癖がつく。恋愛という人間の感情の塊のような営みを、合理的に処理しようとする自分に気づくとき、なんとも言えない切なさと、寂しさが込み上げてくる。
ロマンチック=非効率という感覚
どうしても恋愛は「段取りが悪い」と感じてしまう。駆け引きや気持ちの確認、曖昧な返事。司法書士としては、「YESかNOか」「契約書はあるのかないのか」がはっきりしていないと不安になる。恋愛の曖昧さ、不確かさが、今の自分にはストレスでしかないのだ。
感情よりも段取り重視
たとえばデートの約束をするとして、時間や場所がふわっとしていると不安になる。「16時ごろ集合」ではなく「16時00分厳守」と言ってほしい。そう思ってしまう自分はもう、恋愛には向いていないのかもしれない。相手の気持ちよりも予定通りに進むことに安心するようになった。
恋の駆け引きより、法務局の受付時間が気になる
「返信を少し遅らせた方がいい」とか、「あえて追わないのが大人の恋」とか、そういう駆け引きがまどろっこしく感じる。むしろ、法務局が何時に閉まるかの方が大事な情報だ。恋のテクニックよりも、窓口の受付番号のほうが現実的。そんな自分がいることを、認めざるを得ない。
効率化された心に残された空洞
「このやり方は非効率だな」「もっと簡略化できるのに」と思うことが多くなった。効率を求めてばかりいるうちに、心のどこかにあった「面倒でも楽しいこと」への許容が減っていったようだ。その代償として、日々の中で感じるはずの小さな喜びやときめきを手放してしまったのかもしれない。