「ただいま」と言っても返事がない:司法書士の夜と孤独の話
仕事はある、でも会話がない
地方で司法書士をやっていると、ありがたいことに仕事がゼロになる日はほとんどない。登記の相談、相続の案件、成年後見や遺言。依頼の波が止まることはないし、書類も山ほどある。だけど、一日の終わりに「今日は誰と話したっけ」と思い返すと、まともな会話がひとつも浮かばない日がある。それが地味にきつい。仕事があっても、人との関係が薄くなっていく感覚。それが、じわじわと心を蝕んでくる。
今日も依頼はあった、でもそれだけ
朝イチで依頼者から電話。次に法務局への問い合わせ、午後はオンラインで税理士とやり取り。全部「業務連絡」。声は聞いているはずなのに、人と話した気が全くしない。雑談ひとつなく、用件を伝えて終わり。電話を切ったあと、やけに静かな事務所でコーヒーを飲んで、ひと息ついたときにふと孤独が襲ってくる。「今日、自分は機械みたいだったな」と感じる瞬間が、少しずつ心の奥に積もっていく。
電話とメールで埋まる1日、誰とも心が通っていない
電話もメールも多い。忙しいのは事実だ。でも、それは人と繋がっているという感覚とはまるで違う。言葉を交わしても、そこに感情や関係性はなく、ただ業務が進むだけ。昔、友人とラーメンを食べに行って、「何でもない話」を1時間してた時間が今では貴重に思える。あの何気ない会話が、どれほど自分にとって心の栄養だったのか。今は、それがない。ただ、タスクと応答が繰り返される日々。
「お疲れさま」がこんなに重いとは思わなかった
事務員の彼女が帰り際に「お疲れさまでした」と声をかけてくれる。その一言が、ありがたい。だけど、同時にとても重たい。あれを最後に、今日一日誰とも話さずに終わるのかと思うと、夜がひたすら長く感じる。「お疲れさま」って、こんなに胸に刺さる言葉だったっけ?彼女の背中を見送りながら、しばらく無言で座っている自分に気づく。そこには、誰にも見せられない哀しさがある。
家に帰る時間が、怖い
世間では「家に帰れるだけマシ」とか「仕事があるだけ幸せ」と言われる。確かにそれはそうだ。だけど、自分の中で「家に帰る=空虚に向かう」感覚があるのも事実だ。電気をつけても、テレビをつけても、音はするけど誰もいない。布団に入るまで、ただ時間をつぶしているだけ。帰宅が終わりの時間ではなく、「孤独との再会の時間」になっている自分に気づいてしまったとき、しんどさが一気に襲ってくる。
テレビがついていない静けさにやられる
昔は、静かな空間が好きだった。落ち着くし、集中もできる。でも、最近はその静けさが敵に思える。玄関を開けても「おかえり」がない。テレビもついていない、音がない家。冬なんか特に冷たくて、足元から寂しさが這い上がってくる。とりあえずテレビをつけて、ニュースの声でごまかすけど、心には届かない。人の気配がないって、こんなにも自分の存在を薄くするんだなと、身にしみる。
風呂、飯、寝る。会話なしのルーチン生活
風呂を沸かして、スーパーの半額弁当をレンジで温めて食べる。スマホを見ながらテレビをつけて、気がつけば寝る時間。この繰り返し。人と会わないから、何か話題を仕入れる必要もない。自分の生活が、まるで再放送みたいに同じシーンばかり。たまに「これでよかったのか?」と疑問が湧くけれど、答えてくれる人もいない。考えるほど孤独になって、結局スマホでどうでもいい動画を流しながら寝落ちする。
コンビニ弁当と冷めた部屋が迎えてくれる
今日も帰宅して最初に目に入るのは、電気のついていない暗い部屋と、コンビニの袋。ポストにチラシが溜まっていたりすると、なんだか自分の生活の「味気なさ」が目に見える気がする。料理をする気力もない、買い物に出る気力もない、でも腹は減る。だからコンビニ弁当。それを誰にも見られることなく一人で食べる時間は、あまりにも無音で、あまりにも冷たい。
宅配便のインターホンだけが誰かの声
宅配便のインターホンが鳴ったときだけ、人の気配を感じる。ドア越しに聞こえる「佐川でーす」や「置き配でーす」の声が、もはや社会との接点になっている気さえする。対面で受け取ったときなんか、わざと「ありがとうございます」と丁寧に返す。相手は業務でやってるだけなのに、自分は妙に人恋しくなっていて、たった数秒の会話で少し救われる。こんな小さな接点に救いを感じるって、どうなんだろう。
孤独なのか、慣れなのか
最初は「慣れたら平気」と思っていた。でも、それはただ感じないふりをしていただけで、本当はずっと孤独だったのかもしれない。ひとりの空間は気楽だが、誰とも関わらない毎日は、感情の起伏さえ鈍らせる。誰かに会いたい、話したい、そう思ったときに誰もいない。この状況に慣れることが、本当に良いことなのかどうか、今でも答えは出ていない。