“先生”という肩書に救われているようで、すり減らされている
司法書士という職業柄、依頼者からは「先生」と呼ばれることが多い。最初はそれが誇らしくもあり、信頼されている実感にもなった。けれど、何年もその肩書のまま過ごしていると、「先生」と呼ばれる自分と、本来の自分との距離に違和感を抱くようになる。いつしか「先生」と言われるたび、少しだけ背筋がこわばるようになっていた。事務所のドアを閉めて家に帰ったとき、そこにはその肩書きを必要としない空気が広がっている。その無音こそが、自分の中で少しずつ響いてくるのだ。
感謝の言葉が、逆に心を締めつけるとき
「本当に先生にお願いしてよかったです」——この言葉を聞くたび、どこか胸が詰まる。仕事として最大限の対応をしているし、感謝されること自体はありがたい。ただ、最近はその言葉が心の奥まで届かない。表面的には笑顔で「いえいえ、お力になれて良かったです」と返しているが、心のどこかで「それで、あなたの人生は少し良くなった。でも、自分の人生は……?」という声が響く。人の幸せを手助けしていながら、自分の生活は誰にも助けられていないような気がしてしまうのだ。
「先生のおかげです」への返事に困る理由
言われ慣れているはずの言葉なのに、なぜこんなにも居心地が悪いのか。もしかすると、それは自分自身が「誰かのおかげで生きている」と感じられる瞬間が少ないからかもしれない。依頼者にとっては人生の転機となる場面でも、こちらにとっては数ある案件の一つ。そんなギャップが、言葉の重みを受け止めきれなくしている。そして、ひとりの夜、ソファに沈んでテレビの音だけが響く中で、その感謝の言葉がふと蘇る。だが、そこに返す相手もいないし、拍手もない。
本当は「そんなに大したことしてないよ」と言いたい
感謝されるたびに思うのは、「いやいや、そんな立派なことしてないよ」という本音だ。登記や相続の手続きは、法に則った段取りに過ぎず、感動的な魔法でも奇跡でもない。ただ、それが依頼者の人生を動かしてしまう重みも知っている。だからこそ、「先生」という過剰なラベルが時に辛くなる。事務所の看板を外しても、誰かが自分を必要としてくれるだろうか——そんな問いが、深夜の天井にぼんやりと浮かぶ。
仕事では存在を感じてもらえるけど
日中は電話が鳴り、来客があり、メールが次々に届く。誰かに必要とされている実感がある。その中では、役に立っている感覚があり、自分の存在が確認できる。しかし家に戻ると、その存在感はまるでリセットされる。家族がいるわけでもなく、パートナーもいない。照明のスイッチを入れても、誰かが待っているわけではない。仕事の延長ではない“自分だけの居場所”が、あまりに静かすぎて逆に落ち着かない。
家ではドアの開閉音さえ気にされていない
独身の一人暮らしは、静けさに満ちている。玄関のドアを開けても「おかえり」はない。電気をつける手がやけに重く感じる日もある。ふと考える。「この家に、自分がいなくても何も変わらないんじゃないか」と。朝出て行って、夜帰ってきて、誰とも言葉を交わさない日だってある。声を出すのは、テレビに「うん」と返す瞬間くらいだ。司法書士としてどれだけ多くの人と関わっていても、家ではただの“無”になる。
「おかえり」と言ってくれるのは冷蔵庫のブーンだけ
よく冷えた部屋の中、帰ってまず聞こえるのは冷蔵庫のモーター音。まるでそれが「今日もお疲れさま」と言ってくれているような気すらしてくる。少し大げさかもしれないが、本当にそんなふうに感じてしまうのだ。家電に話しかけるようになったら終わりだと思っていたけど、すでに何年も前からその「終わり」にいる。仕事では立派な肩書きを持ち、敬語で扱われる。でも、家では「誰にも話しかけられない日常」がずっと続いている。
“誰かのため”の仕事が、“自分の人生”を食いつぶす
他人の幸せを支える仕事は、時に自分の幸せを後回しにしてしまう。気づけば、週末も仕事の予定を入れていたり、夜中にメール対応をしていたりする。誰かのために動いているうちに、自分自身の時間がすっかり失われていた。気づいたときには、趣味も人付き合いも減っていた。司法書士として成功していると言われても、実感はない。ただ「消耗してるな」と思う瞬間が、日に日に増えてきている。
人の人生にばかり寄り添ってきた結果
成年後見や相続案件で、高齢者や遺族と向き合う時間は長い。たくさんの人生を目の当たりにし、たくさんの別れにも立ち会ってきた。その中で、感情がすり減ったのか、ある日ふと「自分の人生って何だっけ?」と思うようになった。他人のために尽くしてきたことに後悔はないが、ふとした瞬間に、自分が空っぽになっている気がするのだ。誰かの“物語の脇役”として生きてきて、自分の物語が置き去りになっているような感覚。
ふと鏡を見たとき、自分が誰だかわからなくなる
ある朝、顔を洗って鏡を見たとき、自分の目が虚ろだった。眉間には深いしわ、髪は白髪交じり。見慣れたはずの顔に「これは誰だ?」と感じたのだ。もしかすると、“先生”というキャラを長く演じすぎたのかもしれない。本当の自分の声が、どこかに消えてしまったような感覚。その顔を見つめながら、もう一度、人生の舵を取り直したいと思った。
「私は誰かの役に立てている」という幻想
「役に立つ」というのは、他人の視点での評価であって、自分の人生の価値を測るものではない。誰かの役に立ったかどうかでしか、自分を認められない人生は、やがて空っぽになる。もし“先生”と呼ばれなくなったとき、自分には何が残るだろう?今のうちに、“名前で呼ばれる関係”を少しずつでも築いておかなければ、人生は肩書きだけの殻になってしまうかもしれない。
仕事の連絡は鳴るのに、プライベートの通知はゼロ
スマホの通知は、いつも業務連絡ばかり。「至急のご相談」「急ぎの登記確認」——その文字を見るたび、気が引き締まる。けれど、LINEやMessengerの通知は静まり返っている。飲みに行こう、遊びに行こう、そんな誘いはもう何年も届いていない。仕事以外で呼びかけられることがない生活が、どれだけ寂しいものか。思えば、自分の名前を口にしてくれる人は、職場以外ではほとんどいない。
「先生、まだ独身なんですね」と言われるたびの胸のざわつき
よく言われる。「先生、まだ独身なんですね」——悪気はないのだろう。でもその言葉が、まるで“何か足りない人間”と言われているように聞こえてしまう。世間の価値観がどうであれ、孤独のなかで仕事に打ち込む毎日にはそれなりの理由があるのに、まるで“選ばれなかった側”とジャッジされているような気分になる。そんなとき、自分の人生を肯定する言葉がひとつも思い浮かばなくなるのだ。
笑って返すけど、本音は刺さってる
「ええ、まあ、そうなんですよ」と、笑ってごまかす。話題を切り替える。けれど、その後の沈黙がやけに重く感じられる。言葉にしないけれど、本当は「それ言わないでほしい」と思っている。誰にも言えない本音を抱えながら、今日もまた「先生」としての仮面をかぶって仕事をする。そして、家に帰ればまた、誰にも呼ばれない静かな夜が始まる。
それでも、辞められない理由がある
これだけの孤独とすり減りの中にあっても、司法書士の仕事を辞めようとは思わない。それは、時折訪れる“純粋なありがとう”の存在があるからだ。派手でもなければ数も少ない。でも、その一言が、すべてを許してくれる気がするのだ。孤独も、虚しさも、報われない日々も——そのたったひとつの言葉で、また前を向けるようになる。
たまに来る“心からのありがとう”が、全部帳消しにしてくれる
ある年配の依頼者が、手続きの完了後にそっと封筒を差し出しながらこう言った。「先生、本当に助かりました。あなたがいなければ私は今も困っていた」——涙を浮かべながらのその言葉が、胸に染みた。その日の帰り道、駅のホームでふと空を見上げたとき、「続けてきてよかったな」と思えた。その瞬間のために、今日もまた“先生”として生きているのかもしれない。
「先生でよかった」と言われた日の夜だけは少し温かい
その言葉を聞いた日は、帰宅しても部屋が少しだけ違って見える。何も変わっていないのに、空気がやわらかい。湯を沸かし、カップに注ぎながら、「自分にもまだ価値があるんだ」と思える。そんな日は、冷蔵庫の音も少し優しい。名前を呼ばれなくても、自分がここに生きていることを、自分自身で認められる——そんな夜だけは、ほんの少しだけ、孤独が和らぐのだ。